Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 青木昆陽肖像

  
 「医家先哲肖像集」(藤浪剛一 昭和11年)

 青木昆陽/幕張

  ○ 青木昆陽甘藷試作地
  ○ サツマイモの普及
  ○ 昆陽神社
  ○ 出羽三山供養塔
 
 青木昆陽/瀧泉寺

  ○ 青木昆陽墓
  ○ 青木昆陽像
  ○ 青木昆陽記念碑


青木昆陽甘藷試作地 千葉県史跡 千葉市花見川区幕張町4-598-1

 享保20(1735)年、青木昆陽が八代将軍徳川吉宗の命によりサツマイモを試験栽培し、成功した場所です。
 甘藷試作地跡には、記念碑が建てられ、千葉県指定史跡になっています。

 甘藷の試作地として、江戸小石川の養成所等とともに本地が選ばれました。
 ・下総国千葉郡馬加村(現:千葉市花見川区幕張)
 ・小石川薬園(現:小石川植物園)
 ・上総国山辺郡不動堂村(現:九十九里町)

 青木昆陽は、享保20(1735)年に、さつまいもの形や味、栽培方法などをまとめた「蕃藷考」を著し、さつまいもが日本全土に広まるきっかけとなりました。

    

    

(説明板)
「千葉県指定史跡 青木昆陽甘藷試作地
  所在地 地橋花見川区幕張町4丁目598番1
 この地は、享保20年(1735)八代将軍吉宗の命により、青木昆陽が薩摩芋を試験栽培し、成功した所です。
 昆陽は江戸日本橋の魚商の子で本名を文蔵と称し、京都で儒学を伊東東涯に学びました。江戸に帰ったのち町奉行大岡越前守に抜擢され、幕府書物方に登用され古文書調査・蘭学研究に励む一方「藩薯考」を著し甘藷栽培を説き、救荒食として飢饉に備えるよう吉宗に上書し認められました。甘藷は小石川養生園(現植物園)、下総馬加村(現在地)、上総豊海(九十九里町)で試作されましたが、現在地のみが成功しました。
 甘藷栽培を紹介した人は昆陽以前にもいましたが、関東地方に広めたのは昆陽が最初であり、幕府の事業として実施したため全国に影響を与えました。その後幕府における甘藷栽培は次第に増え、天明の大飢饉にも甘藷のおかげで餓死者は皆無であったと伝えています。天保年間(1830-40)には、検見川で甘藷から飴も製造されるようになりました。
  平成9年3月  千葉市教育委員会」

  
 

(碑文)
 「昆陽先生甘藷試作之地」

  

(碑陰)
 「享保二十年五月十二日栽培
  大正八年五月建之」

  
 

<顕彰碑>

(碑文)
 「青木昆陽先生
  顕彰碑」

  

(碑陰)
 「先生は明和六年(一七六九年)十月十二日逝去されました 
  本年は没後二百年にあたりますのでその遺徳を顕彰しこれを建立します。
  昭和四十三年十月十二日
   二百年記念 青木昆陽先生顕彰会」

   


サツマイモの普及

「甘藷之記」(青木昆陽)

  
 

「焼きいも屋」

 「○焼」「八里半」「十三里」。これらは江戸時代の焼きいも屋の看板の文字です。
 「○焼」は皮つきのサツマイモを丸ごと焼くので「○焼」です。
 「八里半」はサツマイモが栗(九里)より味がわずかに劣るという意味で「八里半」です。
 「十三里」は栗(九里)より(四里)うまいということで九里と四里を足して「十三里」です。
 

「名所江戸百景 びくにはし雪中」(二代広重)

 現在の銀座一丁目にあった比丘尼橋の風景を描いています。
 右手に犬が集まってきている焼きいも屋の「○やき」「十三里」の看板が見えます。
 左手の「山くじら」はイノシシ肉などの獣肉を出す店の看板です。

   
 

「麻布芋洗坂 東都歳事記」

 麻布芋洗坂の光景が描かれ、焼きいも屋の「○やき」「八里半」の看板が見えます。

   


昆陽神社 千葉市花見川区幕張町4-803

 青木昆陽を讃えて、弘化3(1846)年に、秋葉神社境内に、昆陽神社が建立されました。

<幕張昆陽地下道> 千葉市花見川区幕張町4丁目?花見川区武石町1丁目

 千葉県道57号千葉鎌ケ谷松戸線にある地下道で、平成16(2004)年7月28日供用開始。
 秋葉神社と昆陽神社は、地下道の建設に際して、一時的に移転、地下道の完成後に地下道の上に再建されました。

     

 京成幕張駅
  
 

<鳥居>

 秋葉神社の鳥居です。

   
 

<狛犬>

 神社が再建された平成18(2006)年の奉納です。

    
 

<由緒>

(掲示)
「秋葉神社・昆陽神社
 鎮座地・・千葉市花見川区幕張町四丁目八○三番地
 交通・・京成幕張駅徒歩一分・JR幕張駅徒歩三分
秋葉神社由緒
【祭神】火之迦具土大神
 記紀にも見られるように人間の生命、生活に欠く事のできない「火」の神様。御神徳は火の幸を恵み、悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除く。火災をはじめ盗難除・百災消除・延命長寿・火防開運の神として祀られている
【由来】
 建立は不詳。通称権現様。古来よりの地名に権現山、権現町と称し、親しまれた名残がある
 享保年間に信仰の厚い氏子より土地を寄贈され、現在の地に移る。江戸時代、境内地に昆陽神社を傍に据える
 千葉市美浜長作線の計画により一時移転。道路開通後、昆陽神社と共に新社殿を運営。
 平成十八年十一月、遷座
【例祭日】
 四月三日

昆陽神社由緒
【祭神】青木昆陽
 江戸時代の蘭学者、甘蔗栽培の普及につとめた
 昆陽は八代将軍吉宗に仕え、享保の大飢饉(一七三三〜三四)の翌年、江戸小石川の薬草園に甘蔗を栽培、数カ所で試作し、成功したのが馬加(幕張)村だった。その後、幕府により各地に甘蔗栽培が広まる。以後、全国の何万人という人々を飢餓から救った
【由来】
 青木昆陽没後、天明の飢饉が起きた。甘蔗栽培を始めて約四十年後のことで、馬加村ではこの大飢饉にもかかわらず、一人の餓死者も出さなかったといわれている。そして、昆陽は「芋神さま」として敬われ、弘化三年(一八四六)秋葉神社境内に祀られた
 ≪道を隔てた千葉市用地に「昆陽先生甘蔗試作之地」碑が建つ」
 (大将八年)千葉県指定史跡≫
【例祭日】
 十月十二日<明和六年(一七六九)十月十日没に由来する
  平成十九年四月吉日」

   
 

<秋葉神社/昆陽神社>

 2つの社殿が並んでいます。左に秋葉神社、右に昆陽神社。

    
 

<秋葉神社>

   
 

<昆陽神社鳥居>

    

   
 

<昆陽神社>

   
 

「昆陽社 史蹟名勝天然紀念物調査 第8輯」(千葉県 昭和6年)

 昔の「昆陽社」です。

  
 

石塔群】

 10基の石塔があります。
 そのうち出羽三山供養塔が4基です。

     

   
 

<供養塔>

 文政三年(1820年)と刻まれた供養塔です。

   
 

<女人講中による石像>

   
 

<子安明神>

  
 

<二十三夜塔>

  
 

<出羽三山供養塔>

 「羽黒山 月山 湯殿山」

 紀念が見当たりませんが、羽黒山から並んでいる順番から推測すると
 明治後期〜昭和時代の建立かと思われます。

   
 

<出羽三山供養塔>

 (表)「羽黒山大神 月山大神 湯殿山大神」
 (裏)「昭和廿六年七月廿三日参拝
     同年七月卅一日建之」

    
 

<出羽三山供養塔>

 天保11(1840)年銘の出羽三山供養塔です。
 「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」
 (右の月山は白カビだらけです。
  左の羽黒山は読めず推定です。)

     
 

<金刀比羅大神>

 明治20年銘の金刀比羅大神です。

  
 

<出羽三山供養塔>

 明治時代の出羽三山供養塔です。
 (明治五壬申年ですかね?)
 「月山 湯殿山 羽黒山」

   
 

<富士浅間大神>

 「富士浅間大神」
 「明治卅六年七月十五日」

    


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