Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 蒲生

  ○ 蒲生大橋
    ・高浜虚子句碑
  ○ 蒲生一里塚
  ○ 愛宕神社
  ○ 藤助河岸跡


蒲生大橋 草加市金明町〜越谷市蒲生愛宕町

 綾瀬川にかかる蒲生大橋は、草加市と越谷市の境に架かっています。

   草加市から蒲生大橋          越谷市から蒲生大橋          綾瀬川下流           綾瀬川上流
     
 

高浜虚子句碑> 草加市金明町

 綾瀬川右岸に高浜虚子の句の銅版プレートが埋め込まれています。
 「舟あそび 綾瀬の月を 領しけり 俳人 高浜虚子」
 この句は高浜虚子が綾瀬川を舟で下った時の作品と言われています。

    

 ※下流の札場河岸公園には、高浜虚子句碑「巡礼や草加あたりを帰る雁」があります(こちらで記載)。
 

<そうかふるさと歩道> 草加市金明町

 虚子の句が掲げられている反対側の綾瀬川右岸のプレートです。
 「川が培ったふるさとのまち 綾瀬川コース(5.5km)」が描かれています。

  
 

<蒲生大橋> 越谷市蒲生愛宕町

 綾瀬川左岸のプレートです。

(プレート文)
「蒲生大橋
 日光道中文間延絵図文化三年一八○六根完成)」によると、この橋は、大橋土橋と記されており、長さ一二間四尺、幅二間一尺、綾瀬川に架けられた土橋で、御普請場。
 足立郡と埼玉郡の境と解説されている。
 昭和五十一年八月に永久橋に架替された時の橋歴書によると、大正七年六月、はじめて木橋として架橋され、その後昭和四○年及び四八年補修整備や重量制限(二トン)を施行してきたが、交通量の増大に伴い上記に永久橋として架替えた。
 草加市と越谷市の行政界が橋の中心を横断する。」

   
 

<水野長福句碑> 越谷市蒲生愛宕町

 綾瀬川左岸のプレートです。
 江戸時代の武士、俳人である水野長福の句が掲示されています。

 「道ぞ永き 日にやき米を 加茂蒲生
    元禄十六年
   水野長福 結城使行より」

  


蒲生の一里塚跡(埼玉県史跡) 越谷市蒲生愛宕町11-34

 埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚です。

<一里塚と周辺>

    
 

<埼玉県指定史跡 蒲生の一里塚>

  

(説明板)
「埼玉県指定史跡
 蒲生の一里塚
   昭和六十年三月五日指定
 一里塚は、江戸時代街道沿いに一里ごとに設置された塚で、塚の上にエノキ・マツ・スギなどを植えて、道程の目標や人馬賃銭の計量の目安に、また旅人の休息の場などに用いられたものである。
 文化年間(一八○四〜一八一八)幕府が編さんした『五街道分間絵図』には、綾瀬川と出羽堀が合流する地点に、日光街道をはさんで二つの小山が描かれ、愛宕社と石地蔵の文字が記されていて、「蒲生の一里塚」が街道の東西に一基づつ設けられていたことが分かる。
 現在は、高さは二メートル、東西幅五・七メートル、南北幅七・八メートルの東側の一基だけが、絵図に描かれた位置に残っている。
 また、塚の上にはムクエノキの古木・太さ二・五メートルのケヤキのほか、マツ・イチョウが生い茂っている。
 多くの塚が交通機関の発達や道路の拡幅などによって姿を消した中にあって、「蒲生の一里塚」は埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚である。
  昭和六十一年十月  埼玉県教育委員会 越谷市教育委員会 植竹誠一郎」

   
 

愛宕神社>

 一里塚にある愛宕神社です。六地蔵や道標があります。 

     

 左から、
 ・とろけた地蔵菩薩像
 ・元禄3(1690)年銘の光明真言供養塔
 ・享保5(1720)年銘の六地蔵
 ・宝暦9(1759)年銘の不動明王像
 ・宝暦9(1759)年銘の十三仏供養塔
 ・安政4(1857)年銘の成田山供養塔 

   

 成田山道標
 (正面)「成田山」
 (左面)「是より 八條へ 壹り 流山へ 二里」

    


藤助河岸跡 越谷市蒲生愛宕町12-4

 藤助河岸は、日光街道と綾瀬川が交差する地の利を生かして、綾瀬川を代表する河岸場の一つとして繁栄しました。
 大正9(1920)年、東武鉄道に越ヶ谷駅が設置されたのを機に次第に衰退し、昭和初期に廃止されました。
 荷物の積み下ろし小屋の一部が復元され、当時の面影を伝えています。

    

(説明板)
「藤助河岸跡
 綾瀬川通り蒲生の藤助河岸は、高橋藤助氏の経営によるもので、その創立は江戸時代の中頃と見られている。当時綾瀬川の舟運はことに盛んで年貢米はじめ商品荷の輸送は綾瀬川に集中していた。それは延宝八年(一六八○)幕府は綾瀬川通りの用水引水のための堰止めを一切禁止したので、堰による荷の積み替えなしに江戸へ直送できたからで、以来綾瀬川通りには数多くの河岸場が設けられていった。
 明治に入り政府は河川や用水路普請に対する国費の支給を打ち切ったので、とくに中川通りは寄洲の堆積で大型船の運航は不可能になり、中川に続く古利根川や元荒川の舟運は綾瀬川に移っていった。
 この中で陸羽道中(旧日光道中)に面した藤助河岸は地の利を得て特に繁盛し、大正二年(一九一三)には資本金五万円の武揚水陸運輸株式会社を創設した。当時この河岸からは、越谷・粕壁・岩槻などの特産荷が荷車で運ばれ、高瀬船に積み替えられて東京に出荷された。その出荷高は、船の大半を大正十二年の関東震災で失うまでは、年間一万八千駄、着荷は二万駄以上に及んだといわれる。この河岸場は昭和初期まで利用されていた。
 なお、ここに復元された藤助河岸場は、藤助十八代当主高橋俊男氏より寄贈されたものである。 
  平成五年 越谷市教育委員会」

  
 

<藤助酒店> 越谷市蒲生愛宕町12-4

 高橋藤助氏の子孫が営む藤助酒店です。立派な蔵があります。

    


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