権現道は、徳川家康が東金へ鷹狩りのために通った道とされています。
多くの寺社が権現道に面して山門を構えており、行徳街道より古い古道と言われています。
「行徳千軒寺百軒」といわれるほどの寺町ができあがったのは、
塩づくりで栄え、お布施で寺を支える余裕のある人が多かったからといわれています。
<徳蔵寺脇の権現道標識>
「徳蔵寺」 市川市関ケ島8-10
「胡録神社」 市川市関ヶ島5-13
「妙徳白龍辨財天」 市川市本行徳38-18
教信寺の妙徳白龍辨財天の幟が出ています。
「教信寺」 市川市本行徳38-18
「本久寺」 市川市本行徳24-18
「マンホール蓋」
「黒松」「江戸川」「鯉」がデザインされたマンホール蓋です。
内匠堀は、元和〜寛永年中(1615〜1544)に行徳領諸村の灌漑・排水を目的として開削されたと伝えられます。
開削者は当代島村の田中内匠と行徳村狩野浄天といわれています。
現在は暗渠となっています。
「江戸名所図会 行徳 徳願寺」
江戸名所図会に内匠堀が見えます。行徳街道と並行して流れていきます。
なお、徳願寺は「江戸東京四十四閻魔」の第四十二番です。
標柱「史跡 馬頭観世音 内匠堀」
かつて内匠堀が流れていたところにあります。
内匠堀改修の際には多数の馬の骨がでてきたそうです。
(説明板)
「馬頭観世音
(略)
ここの馬頭観音には「寛永七年甲寅(一八五四)二月七日」「佐原飛脚問屋吉田氏」と銘があります。
飛脚問屋は、馬喰、馬の飼い主、飛脚屋などを束ねていたので、商売繁盛や無病息災を祈願したものと思われます。
内匠堀改修の折、この馬頭観音の下から多数の馬の骨がでてきました。愛馬の供養をしたものと思われます。(略)」
<馬頭観観世音>
「嘉永七年甲寅二月七日」「佐原飛脚問屋吉田氏」と刻まれた馬頭観音です。
「行徳おかね塚の由来」
おかね塚の伝承が由来碑に刻まれています。
押切の船着場には、製塩に使う燃料が上総から定期的に運ばれ、船頭や人夫には吉原に遊びに行く者もあり、
その中のひとりが吉原のかねという遊女と親しくなりました。かねは年季が明けると押切に来て亡くなるまで船頭を待ち続けます。
吉原の遊女たちが供養のために碑を建て、村人たちも「おかね塚」と名づけて供養を続けてきたとの伝承です。
村人たちが語り伝え供養をしてきたことを後世に残そうと、地元有志によって昭和五十一年六月に建碑されたものです。
<庚申塔>
阿弥陀如来像を主尊とする寛文5(1665)年銘の庚申塔です。
正面左に紀年が刻まれています。
正面右下に「奉待庚申〜」と刻まれています。
庚申塔には戒名などは刻まれていませんが、刻まれた百余名の願主に女性が多いことから伝承と結びついたもののようです。