Discover 江戸史蹟散歩
 
 行徳街道

  ○ 笹屋うどん跡
  ○ 旧浅子神輿店店舗兼主屋(国登録有形文化財)
  ○ 市川市行徳ふれあい伝承館 休み処
  ○ 加藤邸(国登録有形文化財)
  ○ 田中邸(芭蕉句碑)
  ○ 澤木酒店
  ○ 本行徳神明神社
  ○ 本行徳八幡神社
  ○ 本行徳浅間神社
  ○ 本行徳公民館(行徳のいわれと歴史)


行徳街道】

 「行徳街道」「権現道」「内匠堀」(暗渠)が並行してあります。

   

笹屋うどん跡 市川市本行徳36-17

 成田山への参詣客でにぎわった行徳河岸の「笹屋」のうどんは、行徳の名物でした。お土産として干しうどんも流行しました。
 市川市HP(行徳・南行徳界隈)には、当時の川柳が掲載されています。
 「音のない滝は笹屋の門にあり」
 「さあ船がでますとうどんやへ知らせ」
 「行徳を下る小舟に干しうどん」
 笹屋の店名は、ここでうどんを食べた源頼朝によるものとの由来があります。
 江戸名所図会に描かれている笹屋うどんです。

   

<笹屋うどん跡>

 安政元(1854)年に建てられたという店が残っています。

(標柱)
「笹屋うどん跡
 本行徳の笹屋は、江戸時代うどん屋として繁盛した店でした。船着場近くに位置していたため立ち寄る旅人も多く、紀行文などにも記されています。 市川市教育委員会」

     

 行徳街道にある笹屋うどん跡から、常夜燈まで100mです。石畳の先に見えています。

  

<笹屋の看板> 市川歴史博物館所蔵

 笹屋のケヤキの大看板で、「御膳 ほしうとん 本行徳四丁目 ささや仁兵衛」とあります。
 太田南畝筆と伝えられています。

     

<笹屋の広告用ちらし> 市川歴史博物館所蔵

 笹屋の広告用ちらしと、その版木です。
 「快晴の時をえらんで干し、味はすばらしくよく、実に長くてほめ賞すること限りなし」と宣伝されました。

   

<六曲屏風> 市川歴史博物館所蔵

 源頼朝がうどんを食べたという由来譚を記した六曲屏風が笹屋に残されていました。
 市川歴史博物館に寄贈され、常設展示されています。

    

「笹屋の由来
 この屏風には、源頼朝と、うどん屋仁兵衛の出会いに始まる物語が描かれています。
 頼朝が石橋山の合戦に敗れ、安房の国へ逃げ落ちる途中で漂着したのが下総の行徳で、仁兵衛がだしたうどんによって頼朝一行が力を得ることができたという話です。このとき頼朝が笹りんどうの紋を与えたので、仁兵衛は家名を「笹屋」と改めたと書かれています。
 物語はこのあと、千葉介常胤、胤政父子や上総介広常の娘、末広姫をまじえて展開しています。」

旧浅子神輿店店舗兼主屋(国登録有形文化財) 市川市本行徳35-7

 市川市行徳ふれあい伝承館として展示が行われています。

    

   

 チラシ
   

○市川市行徳ふれあい伝承館 休み処 市川市本行徳37-13

     

加藤邸(国登録有形文化財) 市川市本行徳6-1

 塩問屋だった加藤邸です。国登録有形文化財です。

  

田中邸 市川市本行徳26-8

 元行徳町長宅の田中邸です。

  

<芭蕉句碑>

 芭蕉句碑があります。鹿島での一句です。
 「月はやし梢は雨を持ながら」
 1995年11月の建立です。

    

澤木酒店 市川市本行徳21

 「塩小売店」の掲示が出ています。

   

本行徳神明神社 市川市本行徳32-23

 江戸名所図会に描かれている「本行徳神明神社」です。
 本行徳4丁目の鎮守として祀られています。

  

 社殿は行徳街道に面して西向きに建っています。

     

 亨和3(1803)年銘の手水鉢です。

  

 「水神社、稲荷神社」「三峰山三神」「水神宮」、「力石」

    

 文化2(1805)年銘の狛犬です。

   

 社殿/本殿です。

    

本行徳八幡神社 市川市本行徳25-20

 江戸名所図会に描かれている「本行徳八幡神社」です。
 参道両脇の2本の御神木のイチョウは現在も見られます。
 市川市の保存樹木に指定されています。
 本行徳3丁目の鎮守として祀られています。

  

 扁額「八幡宮」の八は鳩の絵となっています。

    

 手水鉢と諸碑

  

 左から「道祖神社」「八雲神社」「水神神社」と並んでいます。

  

 天満天神碑と力石です。

    

 社殿/本殿です。行徳街道に面して西向きに建っています。

   

本行徳浅間神社 市川市本行徳25

 八幡神社の裏手にある浅間神社です。

    

 麓の小御嶽神社と、山頂の浅間神社です。

   

本行徳公民館「行徳のいわれと歴史」 市川市本行徳12-8

 本行徳公民館前に、案内板「行徳寺町周辺案内図」と「行徳のいわれと歴史」が掲示されています。

(説明板)
「行徳のいわれと歴史
 行徳は、一説によれば大永7年(1527年)金海法印というという山伏が、伊勢内宮の土砂を中州(現在の江戸川区東篠崎町)の地に運び、神明神社を建立したことから始まります。金海法印は土地の開発と人々の強化に努め、徳が高く行いが正しかったことから、多くの人々に「行徳様」と敬われていました。この「行徳様」が行徳の地名になったといわれています。
 また、応安5年(1372年)「香取文書」に「行徳」の地名が記されており、室町時代以前から集落があったとも考えられています。
 中世には里見氏、北条氏の所領となり、この地では古くから「塩づくり」が行われ、江戸時代になると徳川家康が天領として「塩づくり」を保護し盛んになりました。塩田で働く人々が多く暮らし、本行徳付近から行徳街道沿いに集落が広がっていきました。
 江戸からの玄関口として新河岸(しんがし:現在の行徳4丁目常夜燈付近)に船着場が設けられ、成田への参詣客や荷物を運ぶ「行徳船」と呼ばれる定期船が往来し、宿場町として発展していきました。このころには松尾芭蕉、葛飾北斎、歌川広重ら多くの文人墨客が訪れています。江戸川の水運も明治期には蒸気船が登場し、いっそうのにぎわいを見せました。
 行徳街道はかつて「成田道(なりたみち)」と呼ばれ、新河岸ら現在の寺町通りをとおり、下妙典を左手に折れ、田尻、原木を経て成田街道へと通じており、江戸庶民の成田参詣の通り道としてにぎわいました。
 徳川家康の時代には、房総の諸大名が江戸への参勤のために利用し、各村々では鎮守を街道沿いに建てて、大切に祀っていたといいます。
 また、当地にはかつて行徳町役場、行徳小学校が置かれていました。」

    


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