【河原】
○ 河原水門/河原の渡し
○ あみ富
【相之川】
○ 今井の渡し旧跡
旧河原村です。
現在の江戸川区東篠崎と市川市行徳の河原地区との間に、かつて「河原の渡し」がありました。
旧江戸川は江戸川水門を作る際に西寄りに流れを変えており、
河原水門のある場所は、「河原の渡し」を河原村(千葉県)から渡った篠崎村(東京都)側となります。
○河原水門 河原番外地(東京都江戸川区か千葉県市川市か未確定)
この辺りは、東京都と千葉県で境界が定まっていない地域で、「河原番外地」と呼ばれています。
昭和18(1943)年3月に江戸川放水路との分岐点に江戸川水門が完成しました。
水門を造る際、旧江戸川の流れを西寄りに変えました(境界論争の発端)。
江戸川区は旧来の境界線の維持を主張し、市川市は川の中央を境界線にすべきと主張し、帰属が決まっていません。
なお、河原番外地にある江戸川河川事務所江戸川河口出張所は、所在地を江戸川区東篠崎町250としています。
また、河原水門の所在地も江戸川区東篠崎町250としています。
なお、隣にある河原排水機場の所在地は、市川市下新宿1です。
河原水門の奥にある船溜まりが旧江戸川の旧流路です。水門から上流の旧江戸川左岸にできた陸地は、江戸川水門ができる前は東京都です。
河原水門と河原排水機場
河原水門江戸川上流と下流
(参考)本行徳排水機場/本行徳水門 市川市本行徳26-15
旧江戸川沿に排水機場が多いのは、自然排水がほとんど不可能な低地域における排水を行うためです。
「本行徳排水機場」に説明板が設置されています。
家族で経営している蕎麦屋で、漁師さんがやっているようで、季節によりハゼの天ぷらなども提供されます。
「あみ富」の「あみ」とは、かつて江戸川で盛んだった網船(あみぶね)に由来するかと思います。
舵子と網打ちの二人三脚でとった魚をその場で刺身やてんぷらにして客をもてなす船遊びでした。
旧江戸川の東京都側沿の船宿のほとんどが、「あみ」の冠を付す名称となっています。
さて、こどもの頃は江戸川でハゼを釣っても、当時は汚い江戸川で釣ったハゼと思うと、気持ち悪くて好き好んで食べられませんでした。
閉店してしまった柴又の川甚で鯉を食べてから認識が変わりました。
メニュー
つけ鴨そば960円(税込)を注文。
麺は思ったより腰がありませんでしたが、鴨汁は鴨肉がいっぱい入っていて、蕎麦との相性が良かったです。
今井橋の近くに「今井の渡し旧跡」があります。
(説明板)
「今井の渡し旧跡
寛永八年(一六三一)一○月に許可された水幅一一四間(約二○七メートル)、水幅六○間(約一○九メートル)の渡し。大正元年(一九一二)初代の今井橋が架けられて役目を終えました。
連歌師柴屋軒宗長が永正六年(一五○九)浅草から船に乗り今井の津頭で下船、紀行文『東路の津登』で紹介したのが文献上のはじまりです。
江戸時代になってからは、江戸からの客は渡しましたが、江戸へ行く客を渡すことは禁じられていました。正保元年(一六四四)千葉の生実の城主森川半彌の家来男女二人久三郎とイネが駆落ちしてきて禁を犯して今井側へ渡ろうとして捕らえられて船頭とその女房を含めて五名が磔の刑に処せられました。
今井の渡し場から一丁(約一○九メートル)下流にあった磔場に久三郎とイネは葬られて、目印の石地蔵が建てられて「ねね塚」といわれましたが、何れの頃かの洪水でその所在は不明になったとされています。(『葛飾誌略』)」
「江戸名所図会 今井の津頭」
江戸名所図会にも描かれている今井の渡しです。
連歌師柴屋軒宗長が永正6(1509)年に浅草から船に乗り今井の津頭で下船、紀行文「東路の津登」を表しました。
挿絵に今井の渡しの紹介が記されています。
「柴屋軒宗長が永正六年の紀行東土産に隅田川の河舟にて葛西の府のうちを半日ばかり葭芦をしのぎ今井といふ津より下て浄土門の寺浄興寺に立寄て、とあれば、はやくより此津のありし事しられたり。」
「東都近郊図」(文政8(1825)年 都立図書館蔵)
「東都近郊図」から、今井の渡し部分の抜粋です。
今井の渡しの下流に島が見えます。