○ 標柱「旧東海道」/保土ヶ谷橋
○ 保土ヶ谷宿本陣跡
○ 保土ヶ谷宿の町並
○ 脇本陣(水屋)跡/保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設
○ 旅籠「本金子屋」跡
○ 保土ヶ谷一里塚跡
国道1号線「保土ヶ谷宿本陣跡」前にある標柱「旧東海道」です。
(標柱)
「歴史の道 旧東海道
正面 ↑問屋場跡350m ↑旧帷子橋跡1250m ←上方見附・一里塚跡500m』
左面 ←金沢横町200m ←問屋場跡350m ↑上方見附・一里塚跡500m
平成16年3月 保土ヶ谷区役所」
国道1号線は、岩井町から保土ヶ谷町へ直角に曲がり、保土ヶ谷橋を渡ります。
保土ヶ谷宿本陣跡があります。
この本陣は苅部本陣と呼ばれていたもので、現在は通用門だけが残っています。
(説明板)
「歴史の道 本陣跡
慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が「ほとかや」(保土ヶ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。
東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が代々つとめています。同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿における最も有力な家で、安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。明治3年(I870年)に軽部姓に改称し.現在に至っています。
本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。保土ヶ谷に藤屋・水屋・大金子屋の3軒の脇本陣がありました。
平成15年3月 保土ヶ谷区役所」
<石碑「保土ヶ谷本陣跡」>
(碑文)
「保土ヶ谷宿本陣跡
(1601〜1870)
江戸時代に江戸幕府が諸大名に参勤交代をさせるため東海道五十三次の宿場毎に本陣をおいたもの横浜開港東京遷都の頃までありました
1965 横浜市長 飛鳥田一雄記」
マンション塀に、保土ヶ谷宿の本陣、脇本陣、商店の配列を記した銅板が張られています。
元治元(1864)年の幕府が調査した絵図を元に作成されています。
(プレート文)
「東海道五十三次 保土ヶ谷宿
東海道五十三次は西暦1601年徳川幕府が宿駅制度を制定してから日本の交通の主要な街道として明治の初期にその制度が廃止されるまで栄えました。保土ヶ谷宿は江戸から数えて4番目の宿で上の町並みは元治元年(1864年)将軍上洛の際に幕府が調査した往還町並絵図のデータをもとに想像復元したものです。
平成三年十月 保土ヶ谷宿四百倶楽部」
保土ヶ谷消防署本陣消防出張所は、脇本陣であった水屋跡に建っています。
(標柱)「歴史の道 脇本陣(水屋)跡
天保年間の水屋(与右衛門)の規模
建坪一二八坪(約四二三u) 間口八間(約一四.五m) 奥行一六間(約二九m) 室数一四 玄関門構付
平成16年3月 保土ヶ谷区役所」
(説明板)
「歴史の道 保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設
本陣・脇本陣
公用の宿泊・休憩施設として参勤交代の大名などに利用されたのが本陣(1軒)脇本陣(3軒)で、明治3年の宿駅制度廃止まで続いていました。しかし、その格式と引き換えに制約や出費も多く、経営は必ずしも楽ではなかったようです。
茶屋本陣
正式な本陣に匹敵する規模と格式を持つ茶屋が上方見附付近にあり、「茶屋本陣」と呼ばれていました。苅部本陣を利用しない大名が休息するほか、参勤交代の大名の出迎えもしていたとされています。
旅籠屋
はじめは「木賃旅籠屋」といって食事を出さず、旅人が持参した食糧を自炊する薪を提供するだけでしたが、元禄(1690年代)のころから食事や酒を提供する旅籠屋も増えてきました。保土ヶ谷宿の旅籠屋の数は寛政12年(1800)には37軒でしたが、天保13年(1842)には69軒となっています。
茶屋
往来する旅人が休息するために宿内には茶屋がありました。文政7年(1824)の保土ヶ谷宿には33軒の茶屋があり、金沢横町の茶屋七左衛門が茶屋惣代でした。
平成16年3月 保土ヶ谷区役所」
「東海道程ヶ谷」(芳艶)
手前の門(本陣でしょうか)から、大名の行列が出発する様子が描かれています。
<脇本陣他>
保土ヶ谷宿には、大金子屋・藤屋・水屋の3軒の脇本陣と茶屋本陣がありました。
○脇本陣(大金子屋)跡 横浜市保土ケ谷区保土ケ谷町1-25
○脇本陣(藤屋)跡 横浜市保土ケ谷区保土ケ谷町1-74-2
○茶屋本陣跡 横浜市保土ケ谷区保土ケ谷町1-67
明治2(1869)年に建てられたと伝えられる旅籠屋「本金子屋」です。
旅籠屋には飯盛女のいる飯盛旅籠屋と、飯盛女のいない平旅籠屋とがありました。「本金子屋」は平宿です。
(標柱)
「歴史の道 旅籠屋(本金子屋)跡
伝・明治二年建築
天保年間の本金子屋(伝左衛門)の規模
建坪七九坪(約二六一u) 間口七間(約一二.七m) 奥行一一間半(約二○.九m) 室数一三
平成16年3月 保土ヶ谷区役所」
(説明板)
「まちかど博物館 旅籠 本金子屋跡
旅籠の面影を残す建造物 館長 金子勇
■本金子屋の歴史■
本金子屋は、江戸時代に旅籠として栄えました。
明治二年に建替えられた現在の建物も、東海道沿いに建つ旅籠の面影を残しています。
過去に国道1号が7mほど拡幅される前は、現在の母屋の前に大名門と前庭がありました。現在、当時の大名門は建物正面の外壁として使われています。
敷地内には本格的な日本庭園(非公開)があります。これは戦後に造られたものですが、四国の石で造られた燈籠や、大正天皇がお忍びで旅をしたときお茶を飲むのに休まれたといわれている石などがあります。」
国道1号線に「保土ヶ谷一里塚跡」があります。
(説明板)
「歴史の道
一里塚跡
街道の距離の目安として、一里ごとに設置されたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土盛した小山を作り、その上に遠くからでも目立つよう榎など木々が植えられていました。この付近にあった一里塚は、江戸から八番目のものです。
上方見附跡
保土ヶ谷宿の京都(上方)側の出入口となる上方見附は、保土ヶ谷区郷土史によれば、外川神社の前にあったとされています。見附は、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしており、「土居」とも呼ばれています。この上方見附から江戸方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれています。
平成30年3月 保土ヶ谷区役所」
(説明板)
「東海道保土ヶ谷宿の松並木と復元事業
保土ヶ谷宿の松並木
我が国に於ける街道並木の歴史は古く、遠く奈良時代まで遡りますが、全国的な規模で取り組まれるようになったのは江戸時代に入ってからです。慶長9年(1604)、幕府は諸国の街道に並木を植えるよう命じました。以来、夏は木陰を作り、冬は風雪を防ぎ、植樹帯は旅人の休息場所となることから、官民挙げて大切に保護されてきました。
保土ヶ谷宿の松並木は、この付近から境木まで3kmあまり続き、広重や北斎などの浮世絵にも度々描かれました。その後、昭和初期までは比較的良好な状態で残されましたが、時代とともに減り続け、旧東海道の権太坂付近を最後に、現在では見られなくなりました。
松並木、一里塚、上方見附の復元事業
区民が主体となって結成した「東海道保土ヶ谷宿松並木プロムナード実行委員会」の提案が、横浜市の事業である第1回「ヨコハマ市民まち普請事業」に採択され、平成19年2月に、国道1号拡幅工事と今空間井川の河川改修工事により創出される公共空間において、旧東海道を象徴する松並木や一里塚の復元を行いました。
「上方の松原」と呼ばれていた今井川に沿った約300mの区間に松などを植樹しました。
明治時代のはじめ、宿場制度の廃止に伴って姿を失った一里塚は、この付近(現在の車道上)にありました。場所の制約から文献にあるような「五間(約9m)四方」に相当する大きさを築くことができませんでしたが、塚の上には昔のように榎を植えました。
平成21年3月には上方見附を復元し、松並木や一里塚と併せて宿場時代の再建に努めています。
「東海道保土ヶ谷宿松並木プロムナード実行委員会」は、平成19年4月より「東海道保土ヶ谷宿松並木プロムナード水辺愛護会」と名を改め、立派な松並木となるよう活動を行っています。
ぜひ東海道の松並木づくりにご協力ください。
令和元年12月 東海道保土ヶ谷宿松並木プロムナード水辺愛護会 横浜市保土ヶ谷区役所」