○ 亀井院
万葉集で歌に詠まれた手児奈が水汲みをしていたと伝えられている「真間の井」があります。
「江戸名所図会」
「江戸名所図会 真間弘法寺」から、鈴木院(現在の亀井院)部分の抜粋です。
「鈴木院」と「ままの井」が見えます。
<真間之井と亀井院>
(説明板)
「真間之井と亀井院
万葉の歌人高橋虫麻呂は、手児奈が真間の井で水を汲んだという伝承を聞いて、
『葛飾の真間の井見れば立ち平し 水汲ましけむ手児奈し思ほゆ』
(葛飾の真間の井を見ると、いつもここに立って水をくんだという手児奈が偲ばれる)の歌を残した。この真間の井は亀井院にある井戸がそれであると伝えられている。
亀井院は寛永十二年(一六三五)真間山弘法寺の十一世日立上人が弘法寺貫主の隠居寺として建立したもので、当初『瓶井坊』と称された。瓶井とは湧き水がちょうど瓶に水を湛えたように満ちていたところから付けられたものである。
その後、元禄九年(一六九六)の春、鈴木長頼は亡父長常を瓶井坊に葬り、その菩提を弔うため坊を修復したのである。以来瓶井坊は鈴木院と呼ばれるようになった。
長頼は当時弘法寺の十七世日貞上人と図り万葉集に歌われた『真間の井』、『真間の娘子(手児奈)の墓』、『継橋』の所在を後世に継承するため、それぞれの地に名文を刻んだ碑を建てた。本寺の入口にあるのがその時の真間之井の碑である。
長頼没後、鈴木家は衰え鈴木院の名称も、また亀井坊と改められた。これは井のそばに霊亀が現れたからといわれている。
北原白秋が亀井院で生活したのは、大正五年五月中旬からひと月半にわたってのことである。それは彼の生涯で最も生活の困窮した時代であった。
『米櫃に米の幽かに音するは 白玉のごと果敢かりけり』
この歌は当時の生活を如実に表現している。こうした中にあって真間の井に関しては次の一首を残している。
『蕗の葉に亀井の水のあふるれば 蛙啼くなりかつしかの真間』
その後、江戸川を渡った小岩の川べりに建つ、離れを借りて暮らしたが、これを紫烟草舎とよんでいる。
昭和五十八年三月 市川市教育委員会」
<真間万葉顕彰碑(真間井)>
(碑文)
「真間井 瓶甕可汲固志何傾 嗚呼節婦与水冽清」
ゆかりの歌
「勝鹿の真間の井を見れば立ち平し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ」(高橋虫麻呂)
<北原白秋歌碑>
北原白秋が亀井院に大正5年に住んでいたことがあり、境内に北原白秋の歌碑があります。
「蛍飛ぶ真間の小川の夕闇に蝦すくふ子か水音立つるは」
平成2(1990)年の建立です。
<本堂>
<標柱「万葉集伝承の地 真間の井」>
<真間の井>
本堂裏に「真間の井」があります。
<万葉歌碑>
真間の井の脇に、万葉歌碑があります。
「勝鹿の真間の井見れば立ち平し 水汲ましけむ手児名し思ほゆ」(高橋虫麻呂)