弘法寺から国分寺へ向かう道の途中に「仙元宮」があります。
<出羽三山供養塔>
鳥居の手前左手に出羽三山供養塔があります。
「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」(供から下は埋まっているので推定)
文政12(1829)年の造立。
「江戸名所図会 国分寺」
江戸名所図会に描かれている国分寺です。
<史跡 下総国国分僧寺跡>
(説明板)
「史跡 下総国国分僧寺跡 指定 昭和四十二年十二月二十七日
天平十三年(七四一)春、聖武天皇は全国に国分寺建立の詔を発し、一国一寺の建立を指令されました。
下総国では、市川に国府がありましたので、ここに国分寺が建立されたのです。その建立年代ははっきりしませんが、奈良時代であることは確実です。
国分僧寺は過去数回の火災をうけて当時のおもかげはありませんが、発掘調査の結果、法隆寺様式の伽藍配置をもつ金堂・講堂・塔の遺構が発見されています。
昭和四十八年三月 市川市教育委員会」
<南大門>
扁額は「金光明四天王護国之寺」。
(説明板)
「國分山國分寺南大門
國分寺は天平十三年(七四一)の詔勅に「僧寺は寺名を金光明四天王護国之寺と為す」とあり、中古より明治二十二年 寺名改称まで当寺は國分山金光明寺と称し、現在は國分山國分寺と呼称す。
当山の南大門は天平創建当初は、現在位置より凡そ南方約二十米 西方約七米の位置に建立されたものと推定される。(法隆寺式の伽藍配置のため)幾度かの火災に依り或る時代に現在の位置に移建されたものである。明治焼失の山門は宝暦年間勝快法印の代に建立されたもので、江戸名所図会や古老の言に依ると楼門造の立派な山門であったことが判る。此の門は明治二十四年十一月の火難に焼失し、この時山門内に安置された仁王尊の阿形像は火中より救出され、吽形像は焼失す。
昭和四十九年大佛師法橋松久明琳氏に依り阿形像は復元補修、吽形像は復元造像されたので、これを安置するため山門焼失後八十七年目に今回檀徒一同の浄財に依って國分山國分寺南大門として再建されたものである。
(以下略)
昭和五十三年七月 國分山國分寺」
<下総国分寺創建伽藍基垣配置図(昭和六十二年七月国分寺)>
<塔の礎石>
<国分山開創一千二百年 記念碑>
<鐘楼>
<石像>
<六地蔵燈籠>
<本堂>
<毘沙門天>
<三人地蔵>
大正2(1913)年、遠足の小学生が江戸川の渡し船の転覆事故で3人亡くなり、それを供養するための地蔵です。
里見公園からの移設です。