Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 千葉県市川市 菅野

  ○ 白幡天神社


○白幡天神社 市川市菅野1-15-2 HP

 天神さま(菅原道真公)が明治4(1871)年に合祀され、「白幡神社」から現在の「白幡天神社」へ改称しています。
 創建時から明治までは武内宿禰をお祀りしていました。
 治承4(1180)年、源頼朝が下総国国府に向かう際に陣を張り、太田道灌が社殿を造営したと伝えられています。
 境内には永井荷風と幸田露伴の文学碑があり、社額は勝海舟による揮毫です。

「武勇擬源氏 桐壺 応神天皇」(歌川国芳 大英博物館蔵)
 武内宿禰と、その肩に乗る皇子(後の応神天皇)が描かれています。

  

<御由緒>

(説明板)
「白幡天神社
御祭神
  武内宿禰
  菅原道真公
御由緒
當宮の創建は不詳なれど治承四年(西暦一一八○年)源頼朝が安房の国に旗揚げの際、この地に白旗を掲げたるをもって白幡と名付けられたと伝えられております。其の後正親町天皇の御代、天正十二年(西暦一五八四年)に御社殿改築の記録を残し、太田道灌によって御造営されたともいわれる古社であります。また、昭和五十九年には、神社本庁振興対策モデル神社の指定を受けるにいたりました。御拝殿に掲げられております社額は、勝海舟揮毫によるものであります。明治十ニ年の御社殿造営を記念する板絵は、柴田是真作のもので市の重要文化財に指定されております。御祭神の武内宿禰は、大変ご長命な方で、五朝の天子にお仕えされ、尽忠無二、国務を整理された功臣第一と伝えられております。
また、後に合祀されました、御祭神菅原道真公は承和十二年(西暦八四五年)京都に誕生され、学徳見識ともに高く、志操堅固な方であり、学問の神として広く信仰を集めております。」

  

幸田露伴文学之碑>

 幸田露伴は晩年に当社近くに住んでいました。
 幸田露伴の葬儀は当社で行われました。

(碑表)
 「幸田露伴文学之碑」

(碑陰)
 「幸田露伴は 小説「五重塔」「運命」等の作品で著名な作家である
  昭和十二年 第一回文化勲章を受賞
  同二十一年に白幡天神社近くに移り住み菅野が終焉の地となった
  露伴の晩年の生活をしるした娘の幸田文の「菅野の記」には
  当時の白幡天神社が描かれている
    平成二十二年八月吉日
      氏子協賛者一同
      宮司 鈴木啓輔」

    

永井荷風文学碑>

 永井荷風は晩年に当社近くに住んでいました。

(碑文)
 「松しげる 
  生垣つゞき 花かをる
  菅野はげにも
  うつくしき里
 永井荷風
  白幡天神祠畔の休茶屋にて
  牛乳を飲む 帰途り緑陰の
  垣根道を歩みつゝ ユーゴーの
  詩集を読む
  砂道平にして人来らず
  唯鳥語の欣々たるを聞くのみ
   「断腸亭日乗」」

  

(碑陰)
「文豪の永井荷風は昭和二十一年から十二年間市川市菅野の地に晩年を過ごした日々の記録を芸術にまで高めた大作「断腸亭日乗」には 荷風が白幡天神社のまわりの静かな環境のなかで読書に耽ひたり ひとり暮らしの楽しさをかみしめている記述がある
  平成二十二年八月吉日
    氏子協賛者一同
    宮司 鈴木啓輔」

  

<表参道>

 石鳥居の扁額は「白幡大神」。

    

 社号標「村社 白幡天神社」と社号標「白幡天神社」。神門。

    

<東参道>

 石鳥居先左手に永井荷風文学碑があります。

  

<西参道>

 天神公園側からの参道です。石鳥居の扁額は「白幡天神社」。

   

<南門>

  

<日露戦役紀念碑>

 「陸軍少将 永田亀書」による「日露戦役紀念碑」です。

   

<國威宣揚>

 「陸軍大将 林銑十郎書」
  明治9(1876)年2月23日〜昭和18(1943)年2月4日
 (林銑十郎肖像は、国立国会図書館「近代日本人の肖像」より)

   

<神輿庫>

  

<御神木>

(碑文)
「御神木由来
 この黒松の巨木は樹齢およそ三百年といわれその雄姿は高さ二十五メートル 幹の太さは大人で二かかえ半という市内最古のものとされ見事な枝ぶりを誇り御神木として永く祭られてきた。
 この御神木は市川市文化財審議会において市天然記念物に指定が決まり公示を二週間余り後に待つばかりの昭和五十四年三月十一日おりからの風速二十五メートルの北西の強風によって地上およそ八メートルのところから折れたものである。
 現在植えられている御神木は昭和五十四年十一月七日に石井?作氏によって奉納されたものである。
  昭和五十五年十月  宮司 鈴木義信」

    

<拝殿/本殿>

 石燈籠

   

 手水舎

  

 狛犬

   

 拝殿内の扁額「白幡神社」は勝海舟による揮毫です。

     

<柴田是真画連句額>

(説明板)
「千葉県有形指定文化財 柴田是真画連句額
「明治十三年(一八八○)、白幡天神社の社額竣工の際に奉納されたと伝えられる連句額である。
 縦五六・九センチ、横一九八・○センチの横長のケヤキ一枚板に、五九名の人々が詠んだ句が連ねられてあり、柴田是真(一八○七〜一八九一)の「手桶に白梅図」が描かれている。
 図は、上部に梅枝、それに竹竿をかけながら、右側の杭に手桶を伏せて描いている。板全面に金箔を散らし飾り、ケヤキの木目を流れる水に見立ており、そこに桶からこぼれる水の色が際立つものとなっている。
 柴田は、幕末から明治前半期の我が国を代表する画家・漆芸家であった。明治期において内国勧業博覧会にて活躍し、また帝室技芸員にも任じられたが、終生、江戸っ子気質を失うことはなく、洒脱なデザインの作品をのこした。本作品は、重厚なケヤキ板を用いた堂々たる風格を備え、年代および製作背景が判明し、柴田是真の筆による基準的作例として貴重である。
 発句の「大松は松とおもハぬ子の日かな」は、旧津藩主 藤堂高猷(一八一三〜一八九五)の句である。連衆には、柴田是真と親しいとされる小築庵春湖(一八一四〜一八八六)、藤堂公出入りの俳人 其角堂永機(一八ニ三〜一九○四)などが含まれ、明治前半期の俳諧資料としての価値も有する。
  平成一九年三月  千葉県教育委員会 市川市教育委員会」

  

<境内社>

   

「古峯神社(前中央)
 浅間宮(前右)
 白山妙理大権現(前左)
 小御嶽石尊大権現(後右)
 稲荷神社(後左)」

      

<白幡天神社周辺>

   


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