Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 千葉県市川市 真間

  ○ 大門通り
  ○ 真間の継橋
  ○ 浮世絵に見る真間の継橋
  ○ 手児奈霊神堂
  ○ 真間稲荷神社


大門通り(弘法寺参道)

 「大門通り」は、国道14号線から真間山弘法寺へと続く参道です。
 京成線の踏切を越え、真間川を入江橋で越え、真間の継橋を渡り、手児奈霊神堂を経て、真間山弘法寺の石階・仁王門に至ります。
 市川の書家による万葉の歌のパネルが民家の壁に31枚掲示されています。

     

     

  
   
<入江橋>

 「真間の入江」の万葉歌の説明板(平成二十九年三月)があります。
 「葛飾の真間の浦廻を漕ぐ船の 船人騒ぐ波立つらしも」(作者不詳)

    

    


真間の継橋 市川市真間4-6-10、4-7-24

 入江橋を渡ると、「真間の継橋」があります。

   

<説明板「真間の継橋」>

(説明板)
「真間の継橋
 その昔、市川市北部の台地と、その南に形成された市川砂州との間には、現在の江戸川へ流れ込む真間川の河口付近から、東に向かって奥深い入江ができていた。この入江を「真間の入江」とよび、手児奈の伝説と結びつけて伝えられた「片葉の葦」やスゲ等が密生していた。
 国府台に下総国府の置かれたころ、上総の国府とをつなぐ官道は、市川砂州上を通っていた。砂州から国府台の台地に登る間の、入江の口には幾つかの洲ができていて、その洲から洲に掛け渡された橋が、万葉集に詠われた『真間の架け橋』なのである。この継橋は
  『足の音せず行かむ駒もが葛飾の 真間の継橋やまず通わむ』
 (足音せずに行く駒が欲しい、葛飾の真間の継橋をいつも手児奈のもとに通いたいものだ)の歌で有名となり、読み人知らずの歌ではあるが、当時の都びとにまで知れ渡っていたのである。
 この真間周辺には継橋をはじめ、手児奈の奥津城(墓)、真間の井など、万葉集に詠まれた旧跡が多い。これらの旧跡も歳月が経つにつれて、人びとの間から忘れ去られていくのであるが、これを憂えた鈴木長頼は、弘法寺の十七世日貞上人と議して、元禄九年(一六九六)その地と推定される位置に碑を建て、万葉の旧跡を末永く顕彰することを図った。この碑が今に残る「真間の三碑」である。
  昭和五十八年三月 市川市教育委員会」  

   

<真間万葉顕彰碑(継橋)> 市川市文化財 市川市真間4-7-23

 万葉集には、真間の手児奈の伝説を詠んだ山部赤人や高橋虫麻呂の歌をはじめ、真間の地を歌った歌が9首載せられています。
 そのうちの3首について、それぞれの歌のゆかりの場所に立てられたのが3つの真間万葉顕彰碑です。

 表面「継橋 継絶興廃維文維板 詞林千歳萬葉不凋」
 左右「住持上人日貞議 鈴長頼立碑勒銘」
 裏面「元禄九丙子仲春」

 ゆかりの歌
 「足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ」(読み人知らず)

  

<万葉歌碑>

 「足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ」(読み人知らず)

   

<日蓮上人の歌碑>

 「ここに人を 渡しはてんと せしほどに 我が身はもとの ままの継橋」

  


浮世絵等に見る真間の継橋

「江戸名所図会 真間弘法寺から抜粋」

 「江戸名所図会 真間弘法寺」から「ままの継橋」部分の抜粋です。

  

「名所江戸百景 真間の紅葉手古那の社継はし」(広重)

 真間山弘法寺は、江戸近郊随一の紅葉の名所でした。
 中央に継橋が描かれ、鳥居と手児奈霊神堂が見えます。楓の葉の向こうには筑波山でしょうか?が見えます。

  

「絵本江戸土産  真間の継橋手子名の社」(広重)

 「真間の継橋手児奈の社 この辺古跡種々あり 秋は紅楓に名高くて 都下の騒人ここに競ふ 真間の紅楓」

  

「武蔵百景之内 下総真間つぎ橋 」(小林清親)

 手前には女性が大きく描かれており、中景に真間川と継橋、遠景に弘法寺の仁王門が見えます。

  


手児奈霊神堂 市川市真間4-5-21 HP
 
 奥津城跡(墓)とされる所に文亀元(1501)年に弘法寺の七世日与上人が手児奈の霊を祀るために建立。

<手児奈霊神堂入口>

     

(説明板)
「手児奈霊堂
 奈良時代のはじめ、山部赤人が下総国府を訪れたという伝承が残っている。その時に真間の手児奈を詠ったものが万葉集に収録されている。
 『われも見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名(奈)が奥津城処』
 手児奈霊堂は、この奥津城処(墓所)と伝えられる地に建てられ、文亀元年(一五○一)には弘法寺の七世日与上人が、手児奈の霊を祀る霊堂として、世に広めたという。
 手児奈の物語は、美人ゆえ多くの男性から求婚され、しかも自分のために人びとの争うのを見て、人の心を騒がせてはならぬと、真間の入江に身を沈めたとか、継母に仕え真間の井の水を汲んでは孝養を尽くしたとか、手児奈は国造の娘でその美貌を請われ、或る国の国造の息子に嫁したが、親同士の不和から海に流され、漂着した所が生まれ故郷の真間の浦辺であったとか、さらには神に仕える巫女であったりする等、いろいろと形を変えて伝えられている。
 万葉の時代から今日に至るまで、多くの作品にとりあげられた真間の地は、市川市における文学のふる里であるともいえる。
(挿絵)真間の紅葉手古那の社継はし(名所江戸百景)
  平成二十八年十一月 市川市教育委員会」

   

「万葉集の真間の手児奈の歌」

  

<真間万葉顕彰碑(真間娘子墓)> 市川市真間4-6-11

 (碑文)
 「真間娘子墓 今手児奈□□ 真間井 在鈴木院之中」

 ゆかりの歌
 「われも見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名が奥津城処」(山部赤人)

   

<高橋虫麻呂万葉歌碑>

 「勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ」
 明治2年5月の建立。

   

<万葉歌碑?>

 白黴だらけで読めません。

  

<吉田冬葉句碑>

 「ふるさとの山静かなる師走かな」

  

<手水舎>

  

<浄行菩薩>

 「浄行菩薩(浄行さま)
  ここにお祀りされております石のお像は、浄行菩薩水と申され、
 水の徳を司る菩薩さまです。お題目を唱えながら浄行さまのお身体を洗い磨く事で、
 心身ともに清まると信仰されております。合掌
  南無妙法蓮華経
  真間山 手児奈霊神堂」

   

<縁結び桂の木>

 歌手さだまさしさんが市川市に在住していた時に奉納した桂の木です。

    

<拝殿>

     

<真野の入り江の名残の池>

  

○安産子育手児奈霊堂標石 市川市真間2-13

 京成線の踏切脇の線路の敷地内に石碑「手児奈霊堂」が建っています。

    


真間稲荷神社 市川市真間4-5-4

 真間稲荷神社は手児奈霊神堂と地続きで建てられている神社です。

    

<安産講記念碑>

 大正9年4月。

   


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