「備後香取神社」に隣接して、
享保13(1728)年造立の丸彫庚申塔(春日部市文化財)があります。
(案内板)
イラスト入りの案内板が掲げられています。
「春日部市指定文化財
備後の
←丸彫庚申塔」
(掲示)
「春日部市指定有形文化財
備後丸彫り庚申塔」
(説明板)
「備後の丸彫庚申塔
庚申塔は、庚申信仰を背景として造立された石塔のことを言います。庚申信仰は、奈良時代に中国の道教の三尸の説が日本に伝わったことから始まりました。三尸の説とは、十干十二支でいう庚申(かのえさる)の日、人が寝ている間に、人間の体内に住む三尸の虫が体から抜け出して天帝にその人の罪を告げ、早死にさせるというものです。三尸の虫は人が起きている間は体外に出ることができないため、人は庚申の日には徹夜をするようになり、講(庚申様をお祀りする集団)などを作って行事をおこなうようになりました。
庚申塔は、こうした行事などを記念として室町時代頃から盛んに造られました。この丸彫庚申塔は、享保十三年(一七二八)、備後香取神社の近くの辻(村の境)に備後村の人々の手によって建てられたものです。庚申塔は村境に祀られ、悪病を防ぐ御利益があります。丸彫りされた青面金剛は、六臂で剣、戟、宝輪、弓、矢、女人像を持ち、日月、雲、邪気、鶏、三猿が彫り込まれています。少々あどけなさが残る顔にふっくらとした腕をしており、青面金剛の持つ恐ろしいイメージはありません。市内でも江戸時代を通じて二百数十基余りの庚申塔が建てられましたが、このように丸彫りのものは全国的にも非常に少ない貴重なものです。
昭和六十一年 市指定有形文化財 春日部市教育委員会」
<丸彫庚申塔>
邪鬼、三猿、台座
台座左側面に紀年、庚申塔の後ろ姿
「備後の丸彫庚申塔」に隣接して「備後香取神社」があるので寄りました。
<由緒>
「備後香取神社 由緒略記
■御祭神
経津主神 (香取さま)
宇迦之御魂神(稲荷さま)
■祭礼日
例大祭 四月十五日
お日待 十月十五日
新穀感謝祭 十二月八日
■由緒
当社の鎮座する備後は、春日部市の南部に位置し、東端には古利根川が流れその自然堤防が広がっている。また、この周辺は西川と呼ばれているが、これは江戸期まで、当社の裏を古利根川が流れていたことに由来する。
創建は、文明年間(一四六九〜八七)との言い伝えがある。往古、当時上中下三組の鎮守であったが、明和年間(一七六九〜七二)に下組は雷電社を奉祀して分離する。また【風土記稿】に「香取社 村の鎮守 真福寺持」と記され、江戸期には隣接する真福寺が別当を務めていたことがわかる。その後、明治四十五年に、大字備後字大道東の稲荷神社を合祀し現在に至る。
御祭神の香取さまは、強い心を育み運勢を開く神さまで、地域の方々の家内安全を守り、また稲荷さまは、豊作・商売繁盛の神さまとして厚い崇敬をうけています。
平成三十年二月吉日 香取神社氏子中」
<手水鉢>
安永7(1778)年に奉納の手水鉢です。
<拝殿/本殿>
<厳島神社>
丸岩講は岩槻を本拠とする富士講です。春日部は岩槻に接しており、春日部には富士塚が多いようです。
その半面、越谷市、草加市、足立区に多い出羽三山供養塔がほとんどないようです(わかりませんが)。
<浅間神社>
富士塚は2段になっています。
塚上に浅間神社の社殿と、奥の塚上に石碑「浅間大神」が祀られています。
「神通力」
昭和3(1928)年建碑。関東大震災について言及しています。
「浅間大神」
安政4(1857)年銘の丸岩講の石碑「浅間大神」です。
(正面)「浅間大神」
(台座)「○岩講中」
(裏面)「安政四丁年己六月朔日」
<標柱/力石>
鳥居の脇に、丸岩講の標柱と力石二基が置かれています。
一基は文字が明瞭です。
「奉納
文化七年八月吉日
五拾八メ目
志村与四郎」
香取神社入口にも力石があります。