中世はこの辺りは下総国に属していたことから、下総国一宮香取神社を村の鎮守として勧請し、鷺後の地に社殿が建立されましたが、
後に奥州街道の整備に伴い、寛永の頃(1624〜44年)に今の地に移築したといわれています。
現在の本殿は、棟札によると慶応2(1866)年に再建されたものです。
その本殿の北面に紺屋の作業の模様が彫刻されています。浅草山谷町の彫刻師長谷川竹次郎の作であり、市指定文化財です。
天満宮から移設された二之鳥居に、几号水準点が刻まれています。
<几号水準点>
参道入口から2つ目の扁額「天満宮」の掲げられた「二之鳥居」の左台石、本殿側に几号水準点が刻まれています。
照光院の境内にあった天満宮が、明治44(1911)年に香取神社に合祀され、
扁額「天満宮」を掲げる鳥居が大正2(1913)年に香取神社に移設されたものです。
右柱裏に、文政6(1823)年の紀年が刻まれています。
左柱裏に、大正2(1913)年に移転されたことが刻まれています。
「大正二年一月一日 東京市日本橋區新□□町
移轉寄附 吉岡伊三郎」
※□□部分は剥落しています。新材木町か新乗物町かと思われます。
<手水鉢>
天和2(1682)年12月に天満宮に奉納された手水鉢です。
「富士三十六景 武蔵越かや在」(広重 国立国会図書館蔵)
越谷の大沢町付近から元荒川超しに富士が描かれています。
桃の花が咲き、菜の花が咲いています。
「日光道中四 越谷」(広重 足立区郷土博物館蔵)
「日光道中」は32枚(2枚1組)の浮世絵で、千住から鉢石までの21宿と日本橋、
野沢の日光道中23枚、神橋から御宮までの日光山9枚があります。「越谷」からです。
<社号標/一之鳥居>
社号標「香取神社」、一之鳥居(昭和60(1985)年)の扁額「香取大神」。
「武蔵野国越谷郷大沢鎮座 香取神社 境内マップ」
<狛犬>
宝暦元(1751)年、奉納の狛犬。
<敷石供養塔>
文化8(1811)年銘の敷石供養塔で道標を兼ねています。
(正面) 「敷石供養塔」
(同右上)「従是二之鳥居迄」
※現在の二之鳥居は大正2(1913)年の移転であり、現在の三之鳥居を示していると考えられます。
<狛犬>
安永9(1780)年の狛犬です。
台座に「國土安全」「天下泰平」。
<石燈籠>
文化8(1811)年、奉納の石燈籠。
<三之鳥居>
<御神燈>
<狛犬石燈籠>
文政2(1819)年、奉納の獅子が背負う石燈籠。
<諸碑>
<手水舎>
寛政3(1791)年銘の手水鉢。
<力石など>
安産の石
厄玉
歯固めの石
<顔はめパネル>
<狛犬>
拝殿前の安永9(1780)年之狛犬。
<拝殿>
(説明板)
「大沢総鎮守 香取神社
(略)
神社沿革
大沢香取神社は、約六百年前室町時代後期の応永年間(一三九四〜一四二七)に下総国一の宮(千葉県佐原市)香取神官の御祭神・経津主大神を御分霊し、香取大明神として太沢村鷺後に一村の鎮守として勧請連立された。奥州街埴(後の日光街道)の整備により武州大沢宿ができたのに伴い、寛永のころ(一六二四?四四)鷺後から現在の大沢の地に移した。
現在の本殿は明治元年に再建されたものであり本殿周囲の彫刻は見事である。また本殿の屋根は昭和六十年に修復された。
主祭神・経津主大神は天照大御神の神勅を奉じて出雲の国譲りの大業を成し遂げられ、また東国開拓を完遂し、平和国家の建設と民生の安定福祉に貢献された神で、以来国家鎮護の神、武勇の神、産業開発の神として崇められている。時代の推移とともに五穀豊穣及び日常生活に関する一切のことをお護りになる神として招福除災の御神徳が信仰されている。
(略)」
<本殿(香取神社の彫刻)> 越谷市文化財
(説明板)
「越谷市指定 有形文化財 彫刻
香取神社の彫刻
昭和五十八年三月二十一日指定
大沢香取神社本殿は、明治元年(一八六八)十二月の再建になるものだが、四面の外壁に彫刻がほどこされた奥殿は、その棟札から慶応二年(一八六六)の建造であることが確認できる。
彫物師は、浅草山谷町長谷川竹次良で、高砂の翁、大黒天、龍などの浮き彫りがそれぞれ奉納者の名とともに刻まれている。ことに北面の一部には、紺屋の労働作業の有様が刻まれており、貴重な民俗資料ともなっている。当時、越ケ谷・大沢は商業都市として、とくに紺屋業が盛んであった。
平成十二年三月 越谷市教育委員会 香取神社」
北面下段には、川で布を洗い、竹竿にかけて干したりと「紺屋」の労働作業が彫刻されています。
かつて越谷・大沢は染屋業が盛んでした。
<御神木>
銀杏の御神木です。
<八坂神社>
<稲荷神社>
周囲には多くの石祠や石造物が置かれています。