Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 川越 太田道灌

  ○ 太田道灌公像
  ○ 川越氷川神社

 【他】
  ○ 仙波東照宮
  ○ 喜多院
  ○ 行伝寺


太田道灌公像 川越市元町1-3-1

 川越市役所は川越城大手門跡にあります。その川越市役所前に太田道灌公像が建っています。
 右手に山吹の小枝を持っています。

(碑文)
「太田道灌公像
 川越は、古代から、この地方の文化の中心であった。長禄元年(西暦1457年)に太田氏が川越城を築き、更に江戸城を築いて川越の文化を江戸に移したので、川越は江戸の母と呼ばれた。明治以降も引き続き埼玉県第一の都府として、大正11年他に魁けて市制を施行した。ここに市制50周年を迎えるに当り市庁舎を新築し、川越市開府の始祖とも仰ぐ太田道灌公の銅像を建て、古き歴史を偲びつつ新しき未来を開こうとするものである。
  昭和47年9月吉日
   川越市長 加藤瀧二出」

     

    


川越氷川神社 川越市宮下町2-11-3 HP

 太田道真、道灌父子は川越築城以来川越氷川神社を城の守護神として篤く崇敬し、
 道灌は矢竹を植え、「老いらくの身をつみてこそ武蔵野の草にいつまで残る白雪」の和歌を献納しています。

<大鳥居>

 高さが15メートルあり木製鳥居としては国内随一の規模です。
 扁額の社号文字は勝海舟の筆です。

     

<太田道灌手植の矢竹と献詠和歌>

 説明板「太田道灌手植の矢竹と献詠和歌」と、矢竹があります。

(説明板)
「太田道灌手植えの矢竹と献詠和歌
 老いらくの 身をつみてこそ 武蔵野の 草にいつまで 残る白雪
長禄元(一四五七)年川越城の築城にあたった太田道真・道灌父子は城の戊亥(神門)の方角に既に鎮座していた当社を城の守護神として篤く尊崇した
特に道灌は当社に詣でて自らこの矢竹を植え冒頭の和歌を献納した」

   

<御神水/戌岩/水神社>

 かつて境内には御手洗川という小川があり、上尾街道を通る人々の憩の場所でした。
 御神水(地下水)と水神社があります。 

    

<御神木>

 御神木は樹齢600年を超えるケヤキです。

    

<山上憶良歌碑>

 柿本人麻呂神社の右脇には、山上憶良の歌碑があります。
 明治十六(1883)年に川越の文学愛好家らによる建立です。
 「令反惑情歌」(まどえるこころをかえさしむる歌)

(表面)

    

(表面)

    

<鯛みくじ>

 ピンクは「あい鯛みくじ」、赤は「一年安鯛みくじ」。

    

<舞殿>

  

<拝殿・本殿>

 拝殿の奥にある本殿は、埼玉県指定文化財です。

     

<境内の摂社と末社>

 境内の摂社と末社が多々で、当然ながら御利益も多々です。

   

・八坂神社

 社殿は埼玉県指定文化財。

   

・護国神社

 「義勇奉公碑」
  西南戦争以降の川越出身の戦没英霊の碑です。
  「義勇奉公碑 陸軍大将鈴木壮六書」

   

・柿本人麻呂神社

 柿本人麻呂をお祀りしています。

     

<富士塚>

 「御嶽神社」

     

 「小御嶽神社」「烏帽子岩」

  小御嶽神社の石碑と、「烏帽子岩 角行霊神 食行霊神」石碑があります。
  「富士講」開祖の長谷川各行と6代目の食行の名前が刻まれています。

    

<各社>

     

     

<鈴木聞多命顕彰碑>

 北参道に「鈴木聞多命顕彰碑」があります。

  


○新河岸川

 川越氷川神社の北参道の先に、新河岸川が流れています。

    


○旧上尾街道 川越市宮下町2-14-1

 川越氷川神社に面した西の道は、旧上尾街道です。
 北参道の入口に説明板「旧上尾街道」があります。

(説明板)
「旧上尾街道 所在地 川越市宮下町
 この坂道は、明治時代まで上尾街道として人々が往還し、上尾街道はここから東に水田地帯を貫いて入間川、荒川の流れを渡り、上尾宿(現在の上尾市)に至る中山道の脇往還としても大切な役割を果たしていた。
 特に、川越と江戸を結ぶ「川越夜舟」で名高い新河岸川の舟運が発展するまでは、荒川が物資流通の大動脈として盛んに利用されたので、老袋河岸や上尾側の平方河岸も物資の集散場として栄えた。このため、河岸に通じるこの街道は、人馬の往来がしきりであった。
 昔は、この坂の途中には冷たい水の湧き出る泉があって、街道を行く人々の疲れをいやしたという。
  昭和五十八年三月  川越市」

   


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