茂原街道(千葉県道14号)から、ENEOSのある交差点から大仏通りへ左折します。
ここから大仏通りの終点まで、アップダウンの道で、信号は一つもありません。
喜多トンネルを通過。横の標識のほか縦のローマ字表記なしの「大仏通り」標識もあります。
古都辺 (こつべ)から奈良へ入ります。
古都辺の由来は、平将門が上野郷に居館し、その地を奈良と称しました。
自身は下総国相馬(現在の茨城県猿島地区)に移りましたが、当地は古い都の付近にあるという意味でつけられたといいます。
「←1.3km 市指定名勝奈良の大仏」
奈良の大仏へ寄るため「←1.3km 市指定名勝奈良の大仏」の標識を左折します。
しかし、この表示は、通りの名前を示す標識ですよね、不思議な標識です。
大仏通りの終点です。リソルの森右折の看板が建っています。
<道標その1>
大仏通りから奈良の大仏へ向かう途中に道標がありました。
上が折れて消失しているのでよくわかりません。
<電信柱支柱>
電信柱の支柱は「奈良支」で、ここが奈良であることを示しています。
<「奈良の大仏」と道標その2>
道が2つに分かれるところに「奈良の大仏」表示と、道標があります。
「市原市指定文化財
奈良の大仏
奈良町会」
昭和十二年一月と刻まれている道標です。
道標から右の道を進むと、また2つに分かれます。
今度は木が生い茂る参道らしき左の道を進みます。
<奈良児童遊園>
誰も遊んでいない奈良児童遊園です。ハイキングの人は見かけません。もちろん鹿もいません。
<奉納>
奉納碑には、昭和五十九年度町会長と本泉寺第五十七世の紀名がありますが、何を奉納されたのでしょうかね。
<馬頭観世音供養塔四基>
奉納碑の左奥に、馬頭観世音供養塔が三基並び、離れて一基あります。
一番右の一基の台座には「競馬連」とあります。
裏には、明治44(1911)年1月18日建立、馬匹改良大競馬紀念とあります。
軍馬の資質を改善するため明治39(1906)年に馬政局が設置され馬匹改良事業に着手、馬匹の需要拡大を狙った競馬の振興も積極的に行いました。
当時、奈良は軍馬と競馬の馬産地だったのでしょう。
伝承によると、初代の大仏は、承平元(931)年に平将門が奈良の大仏を模して此の地に建立した仏像で、創建時は銅製だったとのことです。
現在の大仏は文化元(1804)年再興の石造釈迦如来立像で、市川市指定文化財です。ちなみに東大寺の大仏は国宝です。
2011年の東日本大震災では、像が台座から落ち損壊しましたが、住民が市原市と費用を折半して修復しました。
市原市文化財(名勝)に指定されており、所有者・管理者は、本泉寺他32名となっています。
(説明板)
目の前の大仏や平将門の説明より、参道の植物の説明のほうが圧倒的に多い不思議な説明板です。
「市指定文化財 奈良の大仏
昭和四九年六月十日指定
当地は将門伝説と風光の美しさで知られ、等身大の石造釈迦如来立像が鎮座し、以前より奈良の大仏の名で親しまれている。参道には樹齢約一○○年のヤマザクラの並木があり、目通り幹囲は、最大で三メートル以上にも及ぶ。また、近くには、多数のソメイヨシノが植栽されておりこの立像を囲んで、スダジイ・スギ・イチョウ・クロマツ・モミの大木がうっそうと茂り、その周辺の林床植物としては、コシオガマ・ツルニガクサ・ウコギ・ノコンギク・フタリシズカなど数百種類を数える。
昭和五八年三月 市原市教育委員会」
手水鉢
<台座>
台座正面一番上
「承平元辛卯
春建立
再三之造立
八百七拾四年自
文化元甲子歳
釈迦如来
十月十六日
玄題三千部
上総國市原郡
奈良村」
台座その下「法界萬霊」、台座最下段に安政2年(1855)に台座新造の刻印があります。
台座2段目の左側面
「文化元年 再興世話人」の名前が刻まれています。
<釈迦如来立像>