○ 黒羽領境界石/几号水準点
○ 奥州街道越堀宿
○ 寺子一里塚
○ 弁慶の足踏み石
○ 西坂の馬頭観世音
○ 西坂の足尾大神
○ 馬頭観世音(道標)
黒羽藩主大関増業は、藩の領地と他の領地との境界を明示するために境界石を建てました。
台石には「几号水準点」が刻まれています。
左から、黒羽領境界石、境界石の標柱、明治天皇御駐輦之碑と並んでいます。
(正面)「従此川中東 黒羽領」
<標柱>
「黒磯市指定文化財 史跡 黒羽領境界石
昭和四十七年十月二十五日指定
黒磯市教育委員会(管理者浄泉寺)」
(説明板)
「那須塩原市指定文化財 黒羽領境界石(史跡)
管理者 浄泉寺
黒羽藩主大関増業は、自藩と他藩との境界を明らかにするために文化十〜十一年(一八一三〜一四)何箇所かに境界石を建てた。ちょうど増業が大阪城勤務の時で、碑は大阪で造られ船で運ばれた。
ここ浄泉寺境内にある標柱には、「従此川中東黒羽領」と刻まれてあり、背面には、「於摂州大坂作江西横堀小島屋石工半兵衛」とある。
高さ百五十一センチメートル、幅二十一センチメートルの花崗岩の四角柱である。
もともとこの境界石は、那珂川の左岸越堀宿(黒羽領)側に建てられていた。川をはさんで向こう側は鍋掛宿(幕府領)で、両宿は奥州街道の宿駅であった。
大正七?八年(一九一八〜一九)頃、保存のために現在地へ移された。
昭和四十七年十月二十五日指定 那須塩原市教育委員会」
<几号水準点>
台石に几号水準点が刻まれています。
<明治天皇御駐輦之碑>
<庚申塔>
越堀の大杉へ向かう急階段を登ると、
途中左手に「加茂神社」、右手に石祠稲荷と庚申塔他があります。
<浄泉寺>
寺号標、不動堂、本堂です。
<奥州街道越堀宿>
(説明板)
「奥州街道越堀宿
慶長八年(一六〇三年)、徳川家康が江戸に幕府を開き、翌九年、奥州街道が整備された。
以後、幕府の御機嫌伺いのため、大名の出府が広く行われた。
伊達公出府の折、那珂川洪水で渡河出来ず、急達、那珂川岸に仮屋を建て、減水を待って江戸に向かった。このとき仮屋を建てるのに協力したのが沼野井の藤田和泉重統である。
宿場の形成は、彼がその仮屋を払い請け、旅篭に建て替えた事に始まる。
越堀の地名は、彼が郷川という堀を越えてきた事に由来するとも言われている。
参勤交代の制度確立と共に、大名行列・廻米その他物資の輸送、商人・旅人の往来等で賑わい、近郷や他国から移り住む人が増えて宿場として栄えるようになった。
平成二十六年三月 鍋掛地域車座談議運営委員会」
○奥州街道越堀宿枡形の地碑
「奥州街道越堀宿枡形の地」の碑があり、公民館の建設記念に建立されています。
また、この地は鍋掛村役場跡、黒磯町鍋掛支所跡でもあります。
(碑文)
「此の地
奥州街道越堀宿枡形の地
鍋掛村役場跡
黒磯町鍋掛支所跡
黒磯市老人憩の家鍋掛荘跡
越堀自治公民館建設記念」
富士見峠を下ると「寺子交差点」手前右側に「寺子一里塚公園」があります。
白川寄り約50m先から復元された「寺子一里塚」と、峠から移設された馬頭観世音二基が建っています。
奥州街道富士見峠方面と寺子交差点方面
<寺子の一里塚(那須塩原市史跡)>
江戸より42里(約165キロメートル)の距離を示す一里塚です。
平成7(1995)年に、白川寄り約50m先から復元されています。
(説明板)
「寺子の一里塚(史跡)
管理者 寺子行政区
一里塚は、江戸時代全国の主要な街道に、日本橋を基点として一里毎にその目印として築かれたものである。
ここ寺子の一里塚は、奥州街道四十二番目のもので、江戸より四十二里(約百六十五キロメートル)の距離を示す塚である。
一里塚は、旅人の目印として、そして休憩地として親しまれていたそうである。
鍋掛の一里塚が慶長九年甲辰(一六〇四)に築かれたことから、寺子の一里塚もほぼ同年に築かれたと考えられる。
最初の一里塚は、現在地から約五十メートル程白河寄りにあったが、小学校の建設と道路の拡張によってなくなってしまった。
現在の塚は、平成七年三月に復元されたものである。
平成七年三月吉日 那須塩原市教育委員会」
○富士見峠の馬頭観世音(道標)
安永4(1775)年銘の馬頭観世音で、道標を兼ねています。
湯殿山も示されています。
(正面)「馬頭觀世音」
(左面)「日光山 十六里/江戸 四十一里/水戸
二十二里/八溝山 六里」/
(右面)「湯殿山 六十六里余/仙臺 三十里/會津
二十四里/那須湯本 五里」
(説明板)
「馬頭観音は、荷役として世話になった馬の供養と、旅人の交通の安全を祈り道標として建てられた石仏である。
安永四年(一七七五)十二月寺子村を施主村とし、寺子村二十五ヶ村のうち十四ヶ村が協力して碑を建立したようである。
地元の古老の話では、かつて奥州街道富士見峠には、二〜三軒の茶屋があり、行き交う旅人の休息地でもあったという。
この馬頭観世音も峠の頂上付近に建てられていたが、保存のため街道景観形成事業により現在地に移された。
平成八年丙子三月 那須塩原市」
もう一基の馬頭観世音です。
左からの旧道との合流点に石塔が集められています。
一番右から、「川と共に繁り行く みのり豊に心ゆたかに」(裏に余笹川の氾濫について刻む)、
畜魂碑、庚申塔、2仏、二十三夜塔、4基の馬頭観世音と並んでいます。
<馬頭観世音>
文化2(1805)年2月銘(文化二乙丑歳二月)の馬頭観世音は、弁慶の足踏み石と呼ばれます。
弁慶が源義経と奥州平泉へと落ち延びる道中、石を足台にして馬に乗ろうとしたところ、
重みで石の表面が履いていた草鞋の形に窪んでしまったといいます。
(説明板)
「弁慶の足踏み石(馬頭観世音碑)
馬頭観世音碑の横に、草鞋のような形の大きな窪みがある。地元の言い伝えでは、源義経が平家との戦いの後に、兄の源頼朝と対立し、家来の武蔵坊弁慶らとともに奥州街道を通り、奥州平泉へ落のびる途中、石田坂にて一休みし、さて出発しようと、弁慶が道端の石を足台にして馬に乗ろうとしたところ、弁慶の重みで石の表面が履いていた草鞋の形に窪んでしまったとされている。
後にその石を三つに切り分け、その一つに馬頭観世音の文字を刻み、街道を往来する荷駄馬の守り神とするため、ここ石田坂に設置したという。
馬頭観世音は、以前はこの付近の別の場所に建っていたが、平成十年の那須水害の後に、現在の場所に移設された。
平成二十六年三月 鍋掛地域車座談議運営委員会」
<畜魂碑>
<馬頭観世音>
弁慶の足踏み石の前には、昭和期の馬頭観世音及び馬力神が並んでいます。
<二十三夜塔>
<庚申塔>
旧奥州道中が芦野の宿に入る手前の地区である西坂に入ると、旧道の右手に馬頭観音が二基並んでいます。
馬頭観音二基から50mほど旧奥州街道の西坂を下ると、明治3(1870)年銘の「足尾大神」があります(こちらで記載済)。
T字路から来たへ向かう道は、芦野温泉―中の川―菖蒲沢を経て法師畑へと続きます。
那須湯本を発った芭蕉と曽良が芦野へと向かった有力な道程の一つのようです。
芦野温泉入口に、明治21(1888)年銘の道標を兼ねた馬頭観世音が建っています。
「右ハ 法しは多下川田中
左ハ 左くば
馬頭観世音
明治廿一年十一月 願主 田中」