「さわらびYの歴史・民俗・考古探索ノート」によると、
佐倉市内には出羽三山碑が341基(江戸期71、近代110、戦後145)あるとのこと。
すごい数ですね。小竹区の出羽三山塚を訪れました。
○ 出羽三山供養塔
○ 小竹道祖神社
○ 小竹城跡と小竹五郎の墓
○ 小竹城跡
○ 西の作庚申塚(小竹後谷津1号墳)
「小竹区案内図」の「庚申塚」「出羽三山塚」「道祖神社」「小竹城跡」を訪問。
鳥居の奥に塚があり、その上に出羽三山供養塔が12基並んでいます。
鳥居は、平成25(2013)年に木造から石造りのものに建て替えられたものです。
(説明板)
「【出羽三山 供養塔(小竹御門屋敷2号墳の上)】
出羽三山とは、山形県の月山、羽黒山、湯殿山の総称で、この三山を巡礼する山岳信仰のひとつです。この三山は、山、日、海の神が宿る“神々の峰”にして、五穀豊穣、人民息災、万民快楽等々を祈願する聖地と言われ、死と再生を辿る「生まれ変わりの旅」と言われています。又、自然と信仰、文化が結び付いた重要な文化財として、日本遺産にも選定されています。
ここには古いもので享保3年(1718年)、天保6年(1835年)のものがあり、明治、大正、昭和、平成にたてられたものと全12基あります。
塚の右脇の小さな祠は、湯殿山の本尊の聖観音(県立中央博物館調査)が祀られ、宝暦6年(1756年)に建立されました。」
最後列から古い順に見ていきます。
5列目(最後列)左 享保3(1718)年の出羽三山供養塔です。
正面中央「奉勧講湯殿山三社大権現」
正面右「道師西福寺享保三戊戌天施主小竹村」
5列目(最後列)中央 天保6(1835)年の出羽三山供養塔です。
正面の剥落が激しく、資料によると
正面「月山湯殿山羽黒山」と彫られていました(現在では「山」しか読めない)
5列目(最後列)右 明治12(1879)年の出羽三山供養塔です。
正面「出羽神社、月山神社、湯殿山神社」
裏面に紀年。
4列目左から1番目 明治31(1898)年の出羽三山供養塔です。
正面「羽黒山大神 月山大神 湯殿山大神」
4列目左から2番目 明治41(1908年)年の出羽三山供養塔です。
正面「國弊湯殿神社 官幣月山神社 國弊出羽神社」
4列目左から3番目 大正2(1913)の出羽三山供養塔です。
正面「出羽大神 月山大神 湯殿大神」
裏側に紀年。
3列目左から1番目 昭和9(1934)年の出羽三山供養塔です。
正面「出羽神社 月山神社 湯殿山神社」
裏面 昭和7年8月1日参拝、昭和9年11月8日建之。
3列目左から2番目 昭和30(1955)年の出羽三山供養塔です。
正面「羽黒山大神 月山大神 湯殿山大神」
正面左に紀年。
3列目左から3番目 昭和34(1959)年の出羽三山供養塔です。
正面中央「羽黒山大神 月山大神 湯殿山大神」
正面左に紀年。
2列目左から1番目 昭和38(1963)年の出羽三山供養塔です。
正面中央「羽黒山神社 月山神社 湯殿山神社」
正面右「昭和三十八年七月十五日参拝」
正面左「昭和三十八年十月十五日建之」
2列目左から2番目 平成5(1993)年の出羽三山供養塔です。
正面「湯殿山神社 月山神社 羽黒山神社」
正面右「平成五年七月参拝」
正面左「平成五年十月建立」
前列左 平成14(2002)年の出羽三山供養塔です。
正面中央「羽黒山神社 月山神社 湯殿山神社」
正面右「平成十四年七月参拝記念」
正面左「平成十四年十一月建之」
「聖観音」
塚の右手奥に屋根に覆われた石造物が二基あります。
右手に宝暦6(1756)年に建立された、湯殿山の本尊の聖観音が祀られています。
珍しく社殿を有している道祖神です。
(説明板)
「道祖神社
ここには猿田彦神がまつられています。神社の祭礼の時、行列の先導をする神様で、鼻の高く突き出た天狗の面をかぶり、矛を持っています。遊戯を演じる神でもあり、接客業者などに尊ばれています。このような社のあるものはとても珍しく、社の建立はおそらく明治17年(1884年)という説があり、道祖神としてこの場所に祀られたのは、小竹城の建立のころという説があります。道祖神は、村の入り口や辻に設けられることが多く、旅の神であり、さらには他の地区から病気や災いの侵入を防ぐ、塞ノ神の意味もあります。昭和の初め頃にはこの場所で、縁日の日には、屋台が並び、舞台を作って踊りを楽しみ、とても賑やかでした。そして、この地は踊り場と呼ばれています。」
カーブミラー脇に、説明板「小竹城跡と小竹五郎の墓」が建っています。
(説明板)
「佐倉市市民文化資産
小竹城跡と小竹五郎の墓及びその周辺の里山風景
選定年月日 平成二十三年三月一日
種別 自然資産
員数 一件及び一基
小竹城は、明徳年間(一三九○年頃)小竹五郎高胤によって築城されたと伝えられています。現在では一辺約五○メートルの土塁や空堀が残るみですが、城址を大切に思う住民により、一帯は墓とともに代々守り継がれてきました。
周辺に残る樹林や湧水を含む豊かな里山風景と合わせて、貴重な自然資産です。
平成二十四年三月 佐倉市教育委員会
※選定地は民有地ですので、許可なく立ち入ることはおやめください。」
○小竹五郎の墓
小竹城を築城した小竹五郎高胤の墓です。
明治26(1893)年11月に高橋弥右エ門が先祖菩提のために建てたものです。
墓石
「千葉六家之正跡
小竹五郎之墓」
左 小さな菩薩像の墓石。寛延3(1750)年の銘が見えます。
右 古い墓石の笠部分が置かれています。
説明板の先に進んで行くと、標柱「小竹城跡」が建っています。
(標柱)
「小竹城跡
小竹城は小竹氏の居城としての伝承を残す。しかし臼井氏の一族が小竹氏を称するのは十三世紀のことと考えられるのに対し、遺構の構造から判断される築城時期は十六世紀初頭とされる。遺構としては土塁・空堀・虎口等があり、居館的な性格を濃厚に有する中世城郭である。
平成二年十一月三十日 千葉県教育委員会 佐倉市教育委員会」
小竹後谷津1号墳上に祀られた「西の作庚申塚」です。
左から、文政9(1826)年、万延元(1860)年、延享2(1745)年、文化10(1813)年と、4基の庚申塔が並んでいます。
(説明板)
「【西の作 庚申塚(小竹後谷津1号墳)】
庚申信仰は中国から伝えられ、庚申の日に集まって語りあかす庚申待ちを3年間(18回)繰り返すと、その記念として「庚申塔」や「青面金剛」と刻んだ石碑を建てました。鎌倉時代から室町時代になると貴族だけの信仰から、武士・民間へと広がり、15世紀の後半以後庚申塔の前身である庚申板碑が造立されはじめ、その後、江戸時代の初めより、庚申塔の建立が広く行われるようになりました。ここには4基あり右から2番目の笠つきのものが延享2年(1745年)江戸時代中頃の建立です。上部に日・月、真ん中に蒼面金剛像、足下には踏みつけられた邪鬼、下部に三猿(見ざる、言わざる、聞かざる)と庚申塔の形式を保っています。【庚申とは、十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)を組み合わせた干支のひとつです。干支は60種できますが、これを日に割り当てると60日、年に割り当てると60年に一度やってきます。60歳を祝う「還暦」は、60年経つと生まれた年の干支に戻り、生まれ変わって出直すという意味があります。】」