○ 三県境
○ 道の駅かぞわたらせ
・田口和美博士之像
○ 旧谷中村合同慰霊碑
○ 渡良瀬川橋梁(東武日光線)
○ 佐野市郷土博物館
三県境は栃木県栃木市藤岡町下宮・群馬県板倉町間田・埼玉県加須市小野袋に跨り、
道の駅かぞわたらせの南東方向約500メートルの水田にある行政界です。
三県境は以前、渡良瀬川の中に位置していましたが、
明治時代から大正時代にかけての渡良瀬川の改修工事により、現在の河道に変わり、現在の水路の位置となりました。
<三県境入口案内>
三県境入口案内が2か所にあります。
<遊歩道>
駐車場から三県境へ、板倉町、栃木市、加須市が共同で整備した遊歩道があります。
<三県境案内板>
手書きの案内板が掲示されています。
<三県境>
旧谷田川 旧渡良瀬川
<三県境杭>
<三県境周回記念スタンプ>
スタンプは、三県境にある杭のプレートと同じデザインとなっています。
また、専用のスタンプ台紙が置かれています。加須市が設置しています。
「道の駅かそわたらせ」から三県境まで、階段下直進450mです。
「わが国解剖学の父 田口和美博士之像」
(碑文)
「田口和美博士は天保10年(1839年)旧古川藩領藤畠(現在の北川辺町小野袋)に生まれました
博士は わが国が西洋医学を採り入れた明治維新直後から解剖学に志を立て 日本人として初めて体系的な解剖書(「人体解剖攬要」全13巻)を著しました
明治10年(1877年)には 東京大学医学部初代解剖学教授となり 熱心に後進の指導にあたりました
また ドイツ留学後 明治医学界の重鎮として解剖学会や日本聯合医学界の創設にかかわり その会頭を務めました
生涯を研究と教育にささげた博士は 明治37年(1904年)64歳で亡くなりました
解剖学の分野で日本医学会の礎を気づいた博士は「わが国解剖学の父」として長く記憶されていくでしょう
ここに博士のたゆまぬ努力をたたえ 篤実な人柄を慕い没後100年を記念して 北川辺町民をあげて顕彰するものです。
平成16年3月 北川辺町」
「故田口博士銅像」(東京大学医学図書館所蔵)
東京大学医学部図書館が所蔵する解剖学教授田口和美(1839-1904)の銅像写真です。
銅像は、平成6(1994)年に北川辺町(現:加須市)に移管され、北川辺郷土資料館に展示されています。
また、複製像が、「道の駅かぞわたらせ」敷地内に設置されています。
「田口和美 解剖学教授」(東京帝国大学 小川一真 明治33年)
<展望台>
渡良瀬遊水池が一望できます。
<物産店 かぞ市場>
柿を購入しました。
<パンフレット>
谷中湖北エントランスに「旧谷中村合同慰霊碑」があります。
(説明板)
「旧谷中村合同慰霊碑
旧谷中村は、利根川水系の治水対策として、また、足尾銅山より流れ出る鉱毒の公害対策として、国より進められた貯水池化計画により、377戸、2,527人の村民は、近隣町村に移住し、藤岡町(現栃木市)に合併廃村となります。
ここに広大な渡良瀬遊水地がつくられましたが、国において、この中に残された旧谷中村の墓地を集め、納骨堂を兼ねた、高さ1.8mの慰霊碑が昭和48年(1973)4月に建立されたものです。 栃木市」
十九夜塔が多くあります。次いで庚申塔が多く並びます。
「庚申塔」の一部
「秩父 西國 坂東 百番供養」
文化15(1818)年銘の百番供養塔ともう一基です。
渡良瀬川に架かる東武日光線の渡良瀬川橋梁です。
渡良瀬川橋梁 「スペーシア
デラックスロマンスカーカラー」 JR「特急日光」
○新開橋 栃木市藤岡町藤岡
渡良瀬川橋梁(東武日光線)の下流に架かる「新開橋」です。
<田中正造翁之像>
「田中正造肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
天保12年11月3日〜大正2年9月4日(1841年12月15日〜1913年9月4日)