Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 さいたま市緑区

  ○ 清泰寺


○清泰寺 さいたま市緑区東浦和5-18-9

 武田信玄の息女・見性院の墓があり、埼玉県の旧跡に指定されています。
 また、351基の庚申塔が納められています(さいたま市文化財)。出羽三山供養塔がありました。
 足立百不動尊霊場19番です。清泰寺は赤山街道沿にあります。
 

<赤山街道>

 尾間木氷川神社の左(西)の道路は赤山街道で、清泰寺に通じています。
 埼玉県の説明板「赤山街道」があります。

(説明板)
「赤山街道  所在地 浦和市大字大間木
 赤山街道は、関東郡代の伊奈氏が寛永六年(一六二九)に陣屋を構えた赤山(川口市赤山)に向かう街道であった。街道の起点は与野市あたりと考えられ、浦和市内の木崎・三室・尾間木地区から八丁堤を通って赤山に通じていた。
 伊奈氏は、清和源氏の流れを汲む武人で、信州伊奈に住んだことから伊奈氏を称した。その後三河に移り松平氏、徳川家康に仕え、家康の関東入国後、伊奈氏は小室(伊奈町)、鴻巣などに一万石を領し、小室や土屋(大宮市)などに陣屋をおいて累代治水事業に力を注いだ。
 三代目半十郎忠治は、関東郡代となり、また勘定奉行も兼ね、赤山領七千石を拝領し、赤山に陣屋を移した。忠治は治水、灌漑、新田開発に力を入れ、特に利根川、荒川の大改修を行い、寛永六年には八丁堤を築き見沼溜井造成に着手した。
 現在、赤山街道は与野市や浦和市内で赤山横町とか赤山通りと呼ばれ、歴史と生活が結びついた道路となっている。
  昭和五十八年三月  埼玉県」

   
 

<馬頭観音/六地蔵/地蔵菩薩立像>

 赤山街道に面した清泰寺参道左手に、馬頭観世音の石塔が3基(明治、大正、昭和)と六地蔵及び地蔵菩薩立像が建っています。

    
 

<出羽三山供養塔>

 山門左手に安政5(1858)年銘の十一面観世音菩薩塔があります。
 出羽三山供養塔を兼ねています。

 正面
 「慈覚大師御作 足立坂東第六番目
  十一面観世音菩薩
  慈了山清泰寺」

 台石右端
 「第七番柳崎観音院十五丁」  
 台石左端
 「第五番三室堂二十八丁」

   

    

 右側面
 「月山 湯殿山 羽黒山 西國坂東秩父 供養塔」

    
 

<清泰寺>

 山門手前右手に、さいたま市説明板「清泰寺」があります。

(説明板)
「清泰寺  所在地 さいたま市大字大牧
 清泰寺は、天台宗の寺で慈了山覚源院といい、平安時代初期の高僧慈覚大師円仁(延暦寺三世座主)によって開かれたと伝えられている。本尊は十一面観音立像(秘仏)で、江戸時代初期の作とされている(市指定有形文化財)。
 境内に並ぶ三五一基の庚申塔は、天明三年(一七八三)と万延元年(一八六〇)に建てられたもので、一括して市指定有形民俗文化財になっている。また、ここにある武田信玄の娘見性院の墓は県の旧跡に指定されている。
 見性院は、穴山梅雪(武田の武将)の妻であったが夫の死後、徳川家康の知遇を得、大牧村を采地として与えられていたが、元和八年(一六二二)没して清泰寺に葬られた。見性院が養育した二代将軍秀忠の子幸松丸(後の会津二三万石の城主保科肥後守正之)は三代将軍家光を補佐し幕政で活躍した。
 また、本堂須弥壇に安置されている有泉勝長木牌も市指定有形文化財である。有泉家は勝長の弟五兵衛が大牧村に居住し、子孫累代見性院の墓所に奉仕したといわれている。
  昭和五十八年三月 さいたま市」

  
 

<清泰寺の文化財>

 山門手前左手に、さいたま市説明板「清泰寺の有形文化財」があります。

(説明板)
「清泰寺の有形文化財
市指定有形文化財(彫刻)
木造十一面観音立像  昭和三十六年三月三十一日指定
 木造十一面観音立像は清泰寺の本尊で、十二年に一度の午年にご開帳されます。座高百二十二・○cmで、台座と円形の光背がつき、左手に水瓶を持っています。寄木造り、彫眼で、古色仕上げですが、両眼などに後世の彩色が施してあります。大きめの変化面を載せた頭部は小さめで、腰を絞った引き締まった体躯と膝まで届く長めの腕を持つ観音像です。
 緊張感のある写実的な表情、バランスの良い体躯、複雑で陰影のある装飾的な衣文構成などに、鎌倉時代後期以来流行した宋風彫刻の特色を顕著に見せる秀作といえます。様式技法的に見て、室町時代前半より以前に東国仏師が制作したものと考えられます。

市指定有形文化財(工芸品)
半鐘  昭和六十二年三月三十一日指定
 この半鐘は銅製で、総高六十四・五cm、口径三十七・六cmです。毛彫りされた銘文から、宝永七年(一七一○)に清泰寺に納められたもので、江戸神田の鋳物師粉河市正が鋳造したものであることがわかります。
 総高に対して口径がやや広めですが、形の整った仕上がりのよい半鐘です。制作年、鋳物師名の明らかな近世工芸品として貴重なものです。

市指定有形文化財(工芸品)
見性院霊廟三具足  平成元年三月二十七日指定
 三具足とは、香炉、花瓶、燭台からなる仏具です。清泰寺の三具足には三基とも毛彫りの銘文があり、寛政元年(一七八九)に会津藩主により見性院霊廟に寄進されたものであることがわかります。いずれも真鍮製で、時代を反映して本体は簡素ですが、香炉の蓋に獅子、花瓶と燭台にはそれぞれ一対の揚羽蝶の飾り金具がつきます。
 保存状態が良く、制作年などの由来が明らかな金工品として貴重なものです。

市指定有形文化財(歴史資料)
有泉勝長木牌  昭和五十一年三月三十日指定
 有泉勝長は会津藩士で、清泰寺ゆかりの藩主保科正之より三百石を与えられていました。この木牌は、勝長の三十七回忌にあたる元禄十六年(一七○三)に、勝長の娘婿勝隆が清泰寺に納めたものです。ケヤキ製で総高八十四・六cm、正面に勝長の法名などが刻まれています。また他の三面には、武田信玄、穴山梅雪、見性院、徳川家康、秀忠、保科正光、正之、勝長などの事績を詳細に記す牌後譜が刻まれています。
  平成十四年十月 宗教法人清泰寺 さいたま市教育委員会」

   
 

<庚申塔> さいたま市文化財

 まるで垣根のごとくに、庚申塔が整然と並んでいます。同型の文字庚申塔が349基あります。
 他に、自然石の親庚申塔と駒型庚申塔があり、全部で351基です。

    
 

<清泰寺の文化財>

 境内にさいたま市の説明板「清泰寺の文化財」があります。

(説明板)
「清泰寺の文化財
県指定旧跡
見性院の墓  昭和三十六年九月一日指定
 見性院は武田信玄の娘で、穴山梅雪の妻でしたが、梅雪の死後、徳川家康に養われていました。そして二代目将軍秀忠に男子幸松丸が誕生すると、その養育を頼まれ、七歳まで育てました。幸松丸は、後に信州高遠の城主保科正光の養子に迎えられ、保科正之と称しました。正之は高遠から最上へ、そして会津へと移り、二十三万石の大名となり、幕政にも参画しています。
 見性院は、元和八年(一六二二)に没しました。大牧村が所領であったことから、ここ清泰寺に葬られましたが、見性院に受けた恩を忘れなかった正之は、その冥福を祈るため清泰寺に霊廟を建てました。なお、安政五年(一八五八)建立の現在の墓石は、会津藩により建てられたものです。会津の人々も、名君を育てた見性院を慕っていたことがわかります。

市指定有形民俗文化財
清泰寺の庚申塔  昭和三十六年三月三十一日指定
 清泰寺の境内には、垣根のように並ぶ庚申塔三百四十九基と、青面金剛像浮彫りの庚申塔一基、自然石の庚申塔一基があります。一箇所にこれだけの庚申塔がまとまって存在しているのは、非常に珍しいことです。
 三百四十九基には、正面に「庚申塔」の文字と寄進者の住所氏名が陰刻されているのみです。しかし、青面金剛像の庚申塔には、右側面に「庚申五拾ヶ度供養塔」、左側面に「天明三」などの陰刻銘があります。また自然石の庚申塔には、正面に「三百 庚申塔」、台座裏面に「万延元」などの陰刻銘があります。これらにより、三百四十九基は天明三年(一七八三)と万延元年(一八六〇)とに奉納されたものであることがわかります。ただし、三百四十九基はほとんど同寸同形状のため、五十庚申と三百庚申の区別はつきません。
 庚申塔の寄進の範囲をみると、市域はもとより、県南の各地から遠く東京、千葉にまで及び、当時の庚申信仰がいかに盛んであったかがよく分かります。

◎清泰寺にはこの他にも次の四件の文化財があります。
 市指定有形文化財(彫刻)木造十一面観音立像 昭和三十六年三月三十一日指定
 市指定有形文化財(工芸品)半鐘 昭和六十二年三月三十一日指定
 市指定有形文化財(工芸品)見性院霊廟三具 平成元年三月二十七日指定
 市指定有形文化財(歴史資料)有泉勝長木牌 昭和五十一年三月三十一日指定
  平成十四年十月  宗教法人清泰寺 さいたま市教育委員会」

    
 

<甲子供養塔/三百庚申塔>

 左は、元治元(1864)年銘の甲子供養塔です。
 右は、万延元(1860)年銘の自然石の庚申塔です。
 奉納された300基の庚申塔の親庚申です。後ろに庚申文字塔が並んでいます。
 正面「三百庚申塔」
 裏「万延元庚申蔵 七月吉祥寺 応雲義法一叟書」
 台座「当初願主 利根沢源右エ門貞慶  同 友右エ門貞敬  同 源蔵貞堯」(3人が庚申塔奉納の呼びかけ人)
 (銘文はさいたま市HPを参照しました。)

     
 

<駒型庚申塔>

 上部が欠損した天明3(1783)年銘の駒型庚申塔です。
 左側面「(天が欠けて)明三癸卯歳二月吉日 施主嶋根忠右エ門」
 右側面「奉待庚申五拾ヶ度供養塔」

      

   
 

<地蔵菩薩坐像>

 宝暦8(1758)年銘の地蔵菩薩坐像です。

   
 

<利根沢一郎之碑>

 利根沢一郎君の墓碑銘です。
 明治30年の建碑なので、日清戦争の戦死者でしょうか。

   
 

<鐘楼>

 文化財の半鐘は公開されていません。

   
 

<梵鐘鐘楼改修記念碑>

 昭和61(1986)年5月の建碑です。

  
 

<大牧・啓発学校之碑>

 明治5年7月、清泰寺に大牧・啓発学校が設けられたことの記念碑です。
 「大牧啓發學校之碑」
 「浦和市尾間木史蹟保存会 啓發小学校同窓生等有志」

  
 

<手水鉢>

 弘化三丙午年銘(1846)の手水鉢です。

  
 

<本堂>

  
 

<見性院殿追憶之碑>

 墓地手前に「見性院殿追憶之碑」があり、
 さらに「見性院の墓」への道順が「方向札」が建てられ案内されています。

    
 

<見性院殿墓所> 埼玉県旧跡

 武田信玄の息女で会津藩主・保科肥後守正之を養育した見性院の墓所です。
 見性院は、江戸城内・田安の比丘尼屋敷に住み、大牧村(現緑区東浦和)に領地を与えられました。
 元和8(1622)年に没すると、領地内の清泰寺に葬られ、後に正之によって霊廟が建立されました。
 霊廟は後に倒壊し、その門扉のみが現在に至ります。
 現在の墓石は、安政5(1858)年に会津藩により建てられたものです。
 門扉には葵の紋が見えます。柵に囲まれているため、柵外からの拝観となります。

    

    


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