○ 仙台駅西口
・青葉の風
・愛宕上杉通り
・ガス灯
・AER(アエル)展望テラス
・伊達達武将隊弁当
・楽天イーグルス
○ 仙台城址(国史跡)
・仙台城本丸大広間跡
・懸造跡
・昭魂碑
・伊達政宗公騎馬像
・土井晩翠先生像
・荒城の月歌碑
・宮城縣護國神社
○ 大崎八幡宮(国宝)
○青葉の風 仙台市青葉区中央1-1 仙台駅西口ロータリー駅前広場
1981年8月設置の「青葉の風」です。
ここから西に向かって青葉通りが伸びています。
JR仙台駅西口の青葉通や愛宕上杉通りにガス灯が建てられたのは、地下鉄南北線が開業した1987年です。
全部で117基あり、伊達政宗公騎馬像のミニチュアは、おおむね5基に1基の割合で取り付けられました。
仙台市が2018年度から改修工事を開始。
117基のうち、94基をLEDに換え、愛宕上杉通りの2か所の交差点にあるガス灯8基はそのまま残されます。
(プレート文)
「『レモン色の秘密』
ガス燈のしくみ
タイマーでセットされた時刻になるとガス弁が開き、灯具内のバーナーにガスが送られ、点火プラグによるスパークで着火します。
ガス燈のムードあるレモン色の光は、バーナーで熱せられた、マントルという発光体のはなつ光です。
仙台市ガス局」
31階に無料の展望テラスがあります。営業時間は、10:00-20:00
展望テラスは東と西にあります。
<北の展望>
エレベーターを降りると、北側の窓の展望が望めます。
<東の展望>
東の展望です。
新幹線が良く見えます。
<西の展望>
西の展望です。
○豆パン
東北に行ったら、時々買う白石食品工業(岩手県盛岡市)のパンがあったので、豆パンを購入。
仙台市は楽天イーグルスの本拠地であると実感します。
「史跡 仙台城跡」
(左)「平成十七年三月三十一日」
(右)「平成十五年八月二十七日指定」
(説明板)
「政宗が育んだ“伊達”な文化 仙台城跡
伊達政宗によって築かれた伊達氏の居城跡です。建設地の青葉山はかつて霊場のあった場所で、そこに自然地形を活かし、高い石垣をもつ城郭を築きました。
関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600年)12月に城の縄張りが行われ、翌年1月から普請に着手。
工事は慶長7年(1602年)には一応の完成をみたとされています。二の丸は2代藩主忠宗によって造営され、以降藩政の中心となりました。」
佐賀の乱、西南戦争、日清戦争などに従軍した戦没者に対する慰霊顕彰碑として、
明治35(1902)年11月に昭忠会により建立されました。
福島県沖地震により損傷し、令和5(2023)年3月末完了予定で修復中です。
修復完了まで、騎馬像を写したグラフィック幕で代替されています。
(説明掲示)
「令和4年3月16日に発生した福島県沖を震源とする地震により、騎馬像が傾くなどの被害が発生したため、現在、修復作業を行っております。」
(説明板)
「土井晩翠
晩翠は本名を林吉といい明治四年(一八七一年)仙台市北鍛冶町の質商土井七郎兵衛の長男として生まれた。
明治十一年、培根小学校(今の木町小学校)に入り、のち立町小学校に転校、仙台英語学校、旧制第二高等学校を経て明治三十年東京帝国大学英文科を卒業、明治三十三年母校二高の教授として帰仙した。
その間、三十一年に不朽の名作「荒城の月」を作詩発表、続いて第一詩集「天地有情」を処女出版した。島崎藤村の「若葉集」におくれること二年の明治三十二年、晩翠の二十八才から二十九才にかけての頃であった。
のち六つの詩集や数多くの随筆など出版した。
昭和二十二年日本芸術院会員、二十四年仙台市名誉市民に推され翌二十五年、文化勲章を受章され昭和二十七年十月十九日、仙台市本荒町の晩翠草堂で情熱の詩人としての八十一年の生涯を閉じられた。
この碑は昭和二十七年、晩翠会等によって建てられたものです。」
「荒城の月
春高楼の花の宴 めぐる盃影さして
千代の松が枝わけいでし むかしの光いまいづこ
秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて
植うるつるぎに照りそひし 昔のひかりいまいづこ
今荒城の夜半の月 変わらぬ光たがためぞ
垣に残るはただかづら 松に歌ふは唯あらし
天上影は変わらねど 栄枯は移る世のすがた
写さんとてか今もなほ ああ荒城の夜半の月
晩翠」
「土井晩翠肖像」(「近代日本人の肖像」国立国会図書館)
明治4年10月23日〜昭和27年10月19日(1871年12月5日〜1952年10月19日)
(参考)
国際子ども図書館の前庭に「小泉八雲記念碑」があります。
結核のため23歳で亡くなった土井晩翠の長男土井英一は小泉八雲を景仰しており、
その遺言に基づき、父の土井晩翠が昭和10(1935)年に帝国図書館前庭に建てました。
<宮城縣護國神社> 仙台市青葉区川内1番地 HP
宮城縣護國神社は、明治37(1904)年に仙台城本丸城址に創建された神社です。
大崎八幡宮は、慶長12(1607)年に伊達政宗公によって創建されました。
本殿・石の間・拝殿が一体となっている権現造です。
(説明板)
「政宗が育んだ“伊達”な文化 大崎八幡宮
慶長12年(1607)に伊達政宗により造営されました。織田信長、豊臣秀吉が築いた安土桃山時代の現存最古の権現造で、総漆塗、極彩色、飾金具による豪華で流麗な桃山様式の世界が広がります。政宗の志向を表す“伊達”な文化を最も代表する建造物です。参道沿いの杉木立が深閑とした雰囲気を漂わせる八幡宮は、現在も初詣や松焚祭(どんと祭)、七五三の祝いなどで多くの市民に親しまれています。社殿は明治36年(1903)に国宝に指定されました。」
<北参道鳥居>
表参道ではなく、北参道から入りました。
「八」の字が鳩になっている扁額です。
(説明板)
「北参道鳥居
御鎮座四百年奉祝事業の一環として平成十七年十一月に建造された。
木材には樹齢ニ五○〜三○○年の青森ヒバ、袴石には茨城県産の御影石が使用され、重厚な雰囲気を醸し出している。
高さ約七メートル、幅八・四メートルと木造の鳥居としては県内では最大規模を誇る。」
<北参道手水舎>
元文5(1740)年銘の手水鉢です。
(説明板)
「北参道手水舎
この手水舎は、昭和五十六年表参道長床前に建てられたもので、御社殿保存修理事業を前に一時撤去されていましたが、北参道鳥居建設に伴い、修理を施し平成十九年十一月に移設致しました。また手水鉢は元文五年(一七四○)に当時の氏子七名によって奉納されたもので、新たに敷設された敷石との対比に歴史の重さを感じさせます。」
<社殿屋根>
北参道から拝殿と本殿の屋根が見えます。
<北参道終端>
<表参道>
参道口方面。
<太元社>
<遥拝所>
(説明板)
「年間の祭典行事の折、由縁あるところに対し拝礼する場所です。
ニ月十一日 紀元祭 梶原神宮
四月二十九日 昭和祭 武蔵野御陵
十月十七日 神嘗奉祝祭 伊勢神宮
十月二十日 地久祭 皇居
十ニ月二十三日 天長祭 皇居
皆様も故郷の神社やご家族、ご友人、お知りあいの方などに思いを込めましょう。」
<長床> 国重要文化財
<社殿> 国宝
社殿は国宝です。
日光東照宮の「眠り猫」と同じ構図の「にらみ猫」が拝殿の内部にあり、
外観からは見えない場所にあるので写真でご覧くださいとのことです。
<パンフレット>
伊達氏に関連する霊廟や付属施設のある一帯は、「経ケ峯伊達家墓所」として仙台市指定史跡となっています。
○瑞鳳殿 仙台市青葉区霊屋下23-2 HP
瑞鳳殿は、伊達政宗の霊廟です。
寛永14(1637)年に経ケ峯に造営された瑞鳳殿は、昭和6(1931)年に国宝に指定されるも戦災で焼失。
昭和54(1979)年に再建されています。
(参考)
<仙台藩外桜田上屋敷跡(伊達政宗終焉の地)> 千代田区日比谷公園
千代田区日比谷公園に、仙台市の説明板「仙台藩祖 伊達政宗 終焉の地」が建っています。
東京都ではなく、仙台市の説明板であることも珍しいでしょう。
伊達政宗は、江戸城の目と鼻の先にお住まいだったのですね。
政宗の時代には、徳川家康が3度、二代将軍秀忠と三代将軍家光はそれぞれ各4度ここを訪れています。
寛永13(1636)年にここで亡くなった伊達政宗の遺骸は、仙台の経ヶ峯に埋葬され瑞鳳殿が建てられています。
政宗が亡くなった際には15人が殉死しました。殉死の理由は、衆道(武士の男色)にあります。
将軍家光は殉死者が出ないように命じていましたが、最終的には許可しています。
(説明板)
「仙台藩祖 伊達政宗 終焉の地
ここは、仙台藩祖伊達政宗から三代綱宗の時代、仙台藩の外桜田上屋敷があったところである。慶長六年(1601年)、政宗は徳川家康より江戸屋敷を与えられ、外桜田の屋敷は寛文元年(1661年)まで上屋敷として使用された。その敷地は、東西は心字池西岸から庭球場東端まで、南北は日比谷堀沿いの道路から小音楽堂付近まで広がっていたものと推定される。政宗の時代には、徳川家康が三度、二代将軍秀忠と三代将軍家光はそれぞれ各四度ここを訪れ、もてなしを受けたことが記録に残っている。
政宗は江戸参勤の折、寛永十三年(1636年)五月、ここで七十年の生涯を閉じた。
仙台市」
瑞鳳殿の近くに、戊辰戦争及び函館戦争の忠魂碑があります。明治10(1877)年の建立です。
弔魂碑正面の台座には、「この戊辰戦争で仙台藩のために戦死した一千人余の当地士民の霊魂を慰める為に、伊達宗基旧藩知事により政宗公の御廟のそばに本碑を建てた」と漢文で記されています。
(説明板)
「戊辰戦争 忠魂碑
弔魂碑は、戊辰戦争(慶応4年/明治元年(1868)〜明治2年(1869))における仙台藩士及び旧幕臣・米沢藩の仙台応援隊士らを含む殉難者1,260名及び民間で犠牲となった多くの方の霊を弔うために、伊達家(14代当主伊達宗基)と旧仙台藩士が出資し、明治10年(1877)に鋳鉄製で建立されました。」
<石畳>
石畳が続いています。