長龍山実祭院長福寺と号します。かつて上野寛永寺の隠居寺だったといいます。
境内に千躰庚申塚が残されています。
<千躰庚申供養塔>
彦成通りに面して、標石「千躰庚申供養塔」が建っています。
墓域の脇を進みます。
<千躰庚申塚>
現在、400基以上の庚申塔が並んでおり、戦前には約二倍の庚申塔があったと伝えられています。
江戸時代には千体あったことがうかがえます。
(説明板)
「千躰庚申塚 吉川市指定文化財 平成5年4月1日指定
奈良時代に中国から伝わった庚申信仰は、江戸時代になると、このあたりでも盛んとなり、庚申講がおこなわれていました。庚申講とは60日に一度めぐってくる庚申の日に講中
(仲間)が集まり念仏を唱えたり、飲食をともにして夜を明かす行事です。庚申講を3年18回続けた記念に建てられるのが庚申塔です。
千躰庚申塚には文政10年(1827)を最古に400基以上の庚申塔が並び、文政11年建立の庚申塔には11ヵ村135名もの造立者の名前が刻まれています。昭和59年には新たに4基の庚申塔が建てられ、長い年月にわたる信仰がうかがえます。
この塚に立つ庚申塔の造立者は現在の一都三県(東京・埼玉・千葉・茨城)の広範囲におよび、その総数は500名以上。範囲も数も他に類をみない貴重なものです。
(写真)文政11年建立 庚申塔
令和4年 吉川市教育委員会」
<標柱「千躰庚申塚」>
塚の中央に聳える青面金剛です。
台石左側面に嘉永元(1848)年とあります。
庚申文字塔が多いのですが青面金剛像もいくつか見られます。
昭和59(1984)年庚申塚整備記念
(説明板)
「長福寺 所在地 吉川町道庭
長福寺は、古くは上野寛永寺の隠居寺といわれている。当寺は大きな寺であったと伝えられ、今でも屋根の鬼瓦には十六の花びらの菊の紋章が刻されたものが残っている。
境内には千躰庚申塚があり、江戸時代中期から昭和四十年代に建立されたものを含めて四百三基の庚申塔(戦前には約二倍の庚申塔があったと伝えられる。)があり、この地方の信仰の強さを物語っている。
庚申(かのえさる)とは、道教思想からなる十干十二支の組み合わせで、六十日に一回もしくは六十年に一回やってくるもので、この日は人間の腹の中に住んでいる三尸虫が、寝ている時に天帝に現世を報告し、罪に応じて寿命を短かくするものとされ、人々は徹夜をしたり、庚申塔を建て祈願をしたものである。
また、吉川町の最南端にあたるこの地は、道庭と呼ばれているが、古くはドバと呼んだのを後世に道庭の文字をあてたものといわれる。ドバの意味には平らな地形という意があり、おそらくは古利根川沿いの砂地で流域の変化によってできた自然堤防状の平地をなしていただろうことが推測される。
昭和六十一年三月 埼玉県 吉川町」
<供養塔>
天保9(1838)年銘の様々な供養塔です。
「元三大師安置」「青面金剛供養」「法華経 光明真言 普門品 供養」
千躰庚申塚の前に二基の普門品供養塔と三十番神宮碑が並んでいます。
<本堂>