○ 矢切の渡し
○ 川の一里塚(矢切)
○ 矢切の渡し公園(野菊の花モニュメント)
○ 野菊の蔵やきり観光案内所
○ 弁財天/水神(矢切神社元宮跡)
○ 野間家墓所・宝篋印塔
江戸川を挟んで松戸市下矢切と葛飾区柴又を結ぶ矢切の渡しは現在も渡し舟が運航されています。
この渡しは江戸幕府が地元民のために設けた渡し場のうちの一つであり、女は渡さない渡し場でした。
伊藤左千夫「野菊の墓」では、矢切の渡しは、政夫と民子の最後の別れの場となった所です。
「江戸近郊道しるべ 小金の牧道くさ」(村尾嘉陵 国立国会図書館蔵)
左から「小向いの渡し」「松戸の渡し」「矢切の渡し」が記されています。
挿絵の説明には「松戸の渡しは女を通さず やきれの渡しと小むかいの渡し
内証わたしにて女を渡す」とあります。
<矢切の渡し船着場>
<矢切の渡し碑>
(碑表)
「矢切の渡し
細川たかし識 昭和59年3月吉日」
(碑陰)
「矢切の渡し碑
この碑は昭和五十八年歌謡曲矢切の渡しの大ヒットにより全国に松戸の名を広めるとともに本市観光行政の振興発展に大きく貢献したとして宮間満寿雄松戸市長が歌手細川たかし氏の功績を賛え感謝状を贈った折同氏自らが筆を取った書を碑にしたものである
昭和五十九年六月八日 松戸市 松戸市観光協会」
<矢切の渡し船着場掲示板>
<江戸川堤防から矢切の渡し船着場>
江戸川堤防の上から矢切の渡し船着場を見たところ。
「矢切の渡し船着場へ向う小路は、「江戸川ラインゴルフ松戸コース」の中を突っ切ります(ゴルフボールに注意の看板あり)。
左手にスカイツリーが見えます。
堤防上には「観光案内図」が建っています。
○矢切の渡し公衆トイレ 松戸市下矢切1232
江戸川堤防から階段を降りると「矢切の渡し公衆トイレ」があります。
以前は矢切苑という休憩所だったようですが、現在はトイレと自販機、公衆電話、案内板、ベンチがあるだけです。
「川の一里塚(矢切)」は、江戸川堤防上にある休憩施設です。
松戸の江戸川堤防上には「川の一里塚」が4ヵ所あります。
<矢切の渡しモニュメント>
堤防に上がる途中に「矢切の渡しモニュメント」があります。
<日本の音風景100選(矢切の渡し)>
堤防上に「日本の音風景100選(矢切の渡し)」があります。
平成8(1996)年に環境省(当時環境庁)の「日本の音風景100選」に「柴又帝釈天界隈と矢切の渡し」(セット)が認定されました。
顕彰碑が平成9(1997)年11月に建てられました。
また、「矢切の渡しと野菊の墓文学碑」は、「房総の魅力500選」(昭和58(1983)年)に選定されています。
<川の一里塚>
「川の一里塚」碑と、説明板があります。
(説明板)
「川の一里塚(松戸市矢切地先 河口から十六.八km)
川の一里塚とは、市民の皆様に河川への理解と親しみを深めていただき、憩い・休養のとして利用していただくものです。又非常時における水防活動の拠点及び、河川の位置を知らせるための道標としても利用するものです。
尚この地は、江戸川にあったとされる四十の渡しのうち唯一残されている矢切の渡しです。(略)
この事業は建設省(江戸川工事事務所)が基盤整備を行い松戸市が諸施設を設置しました。(略)
松戸市建設局土木河川課」
堤防下には「矢切の渡し公園」があり、移設された「野菊の墓モニュメント」が見えます。
<魚釣りの少年像>
銘は何もなく、河川占有標識のみあります。
<水五則(太田道灌作)>
太田道灌あるいは黒田官兵衛の作とも言われてきましたが「大野洪聲」氏作で認知されつつあります。
(碑文)
「水五則(太田道灌作)
一、自ら活動して他を動かしむるは水なり。
二、常に自己の進路を求めて止まざるは水なり。
三、障害に逢い激しく其努力を百倍し得るは水なり。
四、自ら勧奨して他の汚水を洗い清濁併せ容るるの量あるは水なり。
五、洋々として大洋を満たし発しては蒸気となり雲となり雪と変じ霰と化し疑しては玲瓏たる鏡となる而うして其の性を失はざるは水なり。
以上」
<江戸川>
江戸川下流〜上流 堤防斜面は一面の菜の花です。
矢切の渡し船がこちらに渡ってくるのが見えます。
令和5(2023)年3月にオープンした公園です。現在は、駐車場と野菊の墓モミュメントがあるだけです。
将来的には色々と整備する計画はあるようです。
事前学習した場所(矢切の渡し公衆トイレ脇)にはありませんでした。
新しく整備された「矢切の渡し公園」に移設されています。
(碑文)
「野菊の墓
後の月といふ時分が来ると、どうも思はずには居られない。 幼い譯とは思ふが何分にも忘れることが出来ない。
最早十年餘も過去つた昔のことであるから、細かい事實は多くは覺えて居ないけれど、心持だけは今猶昨日の如く、其時の事を考へてると、全く當時の心持に立ち返って、涙が留めどなく湧くのである。」
「悲しくもあり楽しくもありといふやうな状態で、忘れやうと思ふ事もないではないが、寧ろ繰返し繰返し、考へては、夢幻的の興味を貪むさぼって居る事が多い、そんな譯から一寸物に書いて置こうかといふ気になったのである。
僕の家といふは、松戸から二里許下って、矢切の渡を東へ渡り、小高い岡の上で矢張矢切村と云ってる所。‐‐‐‐‐‐‐‐」
‐‐‐‐原文より 伊藤左千夫著」
ボランティアのNPO法人が運営しており、土日祝のみの営業です。
この日は営業日でしたが「都合により午後閉店」の掲示がありました。
顔はめパネルがあります。
「野菊の蔵」から江戸川堤防斜面の一面の菜の花。
バス停「矢切の渡し」に設置されている「「矢切「ぶら〜り散策コース」案内」に記載されている
「矢切神社元宮跡」「水神様」「徳川の旗本、野間家の墓」を訪問しました。
<弁財天/水神>
(左)
「弁財天 水神
昭和六十三年五月」
(右)
寛政7(1795)年銘の弁財天のようです(松戸市資料)。
矢切村には、「のまさま」と呼ばれた旗本がいました。
野間重成は、天正18(1590)年小田原の役、慶長19(1614)年、慶長20(1615)年大阪夏冬の両陣で徳川家康軍に名を連ねています。
元和2(1616)年には、その功績によって今の下矢切・上矢切の三百石を与えられたと言われます。その野間重成の宝篋印塔の墓石があります。