〇 柳原親水広場(柳原水閘)
〇 水閘橋/柳原橋
〇 柳原排水機場
〇 江戸川桜並木
栗山配水塔
土木遺産である柳原水閘(明治37(1904)年竣工)が当時のままに保存されている親水広場です。
<柳原水閘とその周辺>
柳原水閘の東には「栗山排水塔」(国登録有形文化財)があり、
江戸川堤防には「江戸川さくら並木」が続いています。
<柳原水閘> 松戸市下矢切1397
江戸川左岸の低湿地を流れる坂川は、古記録では「逆川」と記され、
洪水時には合流する江戸川から水が逆流し、坂川の氾濫は毎年のように農民を悩ませてきました。
現在地に樋門が造られたのが天保7(1836)年で、明治37(1904)年に煉瓦造で造られたのが柳原水閘です。
煉瓦造り4連アーチの樋門で、アーチ部分には大きさの違う石を用いた特徴的な外観をもっています。
・平成 7(1995)年「松戸市指定文化財」
・平成 7(1995)年「産業遺産学界推進産業遺産」
・平成16(2004)年「土木学会選奨土木遺産」
・平成19(2007)年「経済産業省・近代化産業遺産」
上流側 4連アーチ。中央には銘板「柳原水閘」が掲げられています。
下流側 引き上げ式の4連木製ゲートです。
(標柱)
「松戸市指定文化財 柳原水閘
この下の公園にある煉瓦造樋門は、明治時代の煉瓦築造技術を伝え治水事業の歴史を語るうえで欠かすことのできない貴重なものです。
平成12年3月 松戸市教育委員会」
<柳原水閘の歴史>
(説明板)
「柳原水閘の歴史
松戸市指定文化財 柳原水閘
坂川治水事業の歴史は古く、一七二三年(享保八年)の河道の一部改修から始まります。数回の河道延長工事を行ない、自然流下が可能となったのは、一三三六年(天保七年)に最下流である現在の場所に旧式樋門が造られてからのことです。これにより、坂川流域の水害は著しく軽減されました。その後、一九○四年(明治三十七年)に「坂川普通水利組合」によって煉瓦造樋門として造り替えられ、現在の形となりました。
樋門(水閘)は江戸時代?明治時代にかけては、木造及び石造が主流でしたが、明治時代中期から煉瓦造りが加わり、その後、鉄筋コンクリート構造が主流となります。煉瓦造り樋門の建築年代は明治時代中期?大正時代中期の約三十年間程度と非常に短く、柳原水閘のような四連アーチの大規模なものは現存する他の樋門でもあまり例がない大変貴重なものです。また、明治時代の煉瓦築造技術をつたえる資料でもあり、治水事業の歴史を語るうえで欠かすことのできない治水施設です。
なお、設計者は井上二郎であることが、銘板に記されています。井上二郎は一八七三年(明治六年)茨城県北相馬郡相馬町藤代(現藤代町)に生まれ、一九○○年(明治三十三年)東京帝国大学工科大学土木工学科を卒業し、一九○七年(明治四十年)鬼怒川水力電気事業や京浜運河工事の設計を手がけました。また、手賀沼開墾の先導者としても知られています。
時代 明治三十七年四月 竣工
構造 四連アーチ
規格 河川横断方向 十七メートル
河川縦断方向 十三メートル
材質 アーチ部 煉瓦造(野積み)
石造(切り石積み)
脚部 石造(一部コンクリート補修)
指定年月日 平成七年四月十三日指定
松戸市」
「柳原水閘100周年記念碑」
平成16(2004)年11月の建立です。
碑表に柳原水閘の歴史、碑陰に設計者井上二郎の来歴と寄贈者が刻まれています。
(碑文)
「柳原水閘
坂川は流域の人々の生活を支えてきましたが、一方では排水が悪く毎年のように水害を引き起こしていました。このような状況の中、柳原水閘は坂川治水のため明治37年(1904年)坂川普通水利組合によって造られました。レンガ造り4連アーチの樋門で、明治時代のレンガ積み工法を伝える土木史上の基調な建造物です。この碑は平成16年(2004年)に柳原水閘が100周年を迎える記念として建てたものです。
平成16年11月20日」
「土木學會選奨土木遺産 2004」
「近代化産業遺産 平成19年度経済産業省」
西側「水閘橋」と東側「柳原橋」は、柳原水閘及び坂川に架かる橋です。
松戸市と市川市の市境となっています。
このため柳原排水機場の本屋は市川市にあり、駐車場は松戸市にあります。
柳原水門は市川市にあり、柳原親水広場と柳原水閘は松戸市にあります。
柳原排水機場(管理者:千葉県)は、柳原水閘を模したデザインになっています。
「柳原排水機場周辺案内」 松戸市下矢切1397 柳原排水機場前駐車場
「松戸市東部を流れる国分川の流域は、昭和30年代からの都市化で〜」で始まる説明板です。
国分川の説明が書かれており、なぜ?と思いました。
洪水時、国分川の水を国分川分水路トンネルにより分流、坂川に合流させ、柳原排水機場の作動により
国分川の水を江戸川に流して浸水被害の軽減を図っているとの記載でした。
○柳原排水機場ゲート 市川市国府台3-3576
柳原排水機場の手前には、排水取水口と思われる「柳原排水機場ゲート」(管理者:千葉県)があります。
○柳原水門/柳原排水樋管ゲート 市川市国府台3-1392-2
江戸川上流側に「柳原排水樋管ゲート」(管理者:千葉県)があります。
江戸川下流側に「柳原水門(柳原樋管)」(管理者:国土交通省)があります。
橋の欄干は、矢切の渡しと帆船?ですかね。
里見公園まで600mです。
下矢切地区スーパー堤防に長さ400mにわたる桜並木があります。
平成20(2008)年に、松戸市が先行して20本の桜を植えました。
平成21(2009年秋に、松戸市民による里親制度で66本の桜の苗木が植えられました。
<桜並木>
<江戸川>
スカイツリーが見えました。
「江戸川桜並木事業」
○水辺の健康エコロード
案内板「水辺の健康エコロードマップ」・距離標・誘導サインが設置されています。
戦前に建設され今も現役で使用されている水道施設です。
「国登録有形文化財」及び「土木学会推奨土木遺産」です。
(説明板)
「栗山配水塔
土木學會選奨土木遺産 登録有形文化財(建造物)
千葉県企業局(旧:千葉県水道局)栗山配水塔は、県営水道創設期の昭和12年に建設され、現在でも建設当時の姿を保ち、現役の配水塔として稼働しています。
千葉県では、昭和の初めごろから、交通機関の発達による東京からの人口流入に伴う都市化に対し、衛生的観点から近代水道の設置が強くクローズアップされるようになりました。1934年(昭和9年)3月31日、内務省(当時)の許可を受け、千葉県周辺及び東葛・葛南地域において、千葉県営水道創設事業が始まりました。
東葛・葛南地域においては、栗山配水塔から北方に約5q離れた江戸川水源工場(当時)で江戸川から取水し、浄水処理した水を送水ポンプにより栗山配水塔に揚水し、塔の圧力によって浦安町や検見川町(いずれも当時)などへ配水していました。
栗山配水塔は、円筒形の胴体にドーム状の塔屋が被さり、頭頂部には4本柱の換気口が備わっており、また、周囲のテラスは配水塔全体の意匠を引き締めています。バランスのとれた美しいたたずまいは、太平洋戦争においても攻撃をまぬがれ、ほぼ竣工当時の姿を保ちながら、千葉県営水道及び周辺地域の発展の歴史を見つめてきました。
この栗山配水塔は、平成18年度に土木学会選奨土木遺産として認定されました。これは平成15年度に認定された千葉高架水槽(千葉市中央区所在)に次いで、経営水道2施設目の英よとなります。
平成29年度には、千葉分場1号配水池と(千葉市中央区所在)と共に、国の登録有形文化財(建造物)にも登録されました。
土木遺産認定理由
県営水道創設時の円筒形高架水槽で、ドーム状塔屋、頭頂部に4本柱の換気口をもち、現役で配水を担い、地域の歴史的景観をなすことが評価されました。
登録有形文化財登録理由
80年間現役として稼働し続け、建設当時の姿を原形のままに保っていることから“再現することが容易でないもの”として評価されました。 千葉県企業局」