Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 市川市国府台 總寧寺


○總寧寺 市川市国府台3-10-1 HP

 安国山總寧寺と号します。

「江戸名所図会 国府台總寧寺 其二古戦場」

 広大な總寧寺が描かれています。現在の本堂の位置より南側に描かれています。

  

<江戸小石川邸>

 徳川幕府は總寧寺歴代住職に十万石の格式を持つ全国曹洞宗寺院の総支配権を与え、
 すべての人事をつかさどる僧職・大僧録に任じ、江戸小石川(小日向)に邸を与えました。

「江戸切絵図 小日向絵図」(国立国会図書館蔵)
 神田上水沿いには、将軍直衛の弓・鉄砲隊である「御持筒組」「御先手組」「御持組」や「御鎗組」、
 将軍の親衛隊である「御書院番組」が集中しています。
 他には「御勘定組」や「御賄方組」(江戸城内へ食料品を供給)「御台所組」が見えます。
 「総寧寺」も神田上水沿いに描かれています。

  

「東都小石川絵図」(都立図書館蔵)
 「総寧寺役所」と記されています。

  

<山門/下馬>

 山門前に「下馬」標石があります。

    

 江戸名所図会では大門の手前に2基の石塔が見えます。手前の小さい方が下馬標石かもしれません。

  

(説明板)
「安国山総寧寺
 総寧寺はもと、近江国観音寺の城主佐々木氏頼により、永徳三年(一三八三)通幻禅師を開山として、近江国五槻庄樫原郷(滋賀県坂田郡近江町)に建立された曹洞宗の寺院であった。
 ところが、天正三年(一五七五)に至って、小田原城主北条氏政が、寺領二十石を与えて下総国関宿(千葉県関宿町)に移した。
 その後、関宿の地はしばしば水害を被ったため、寛文三年(一六六三)遂に徳川四代将軍家綱に願って国府台の地に移った。その折り幕府は寺領として百二十八石五斗余、山林六万七千余坪を与えている。
 総寧寺は古くから一宗の僧録に任ぜられていたが、徳川家康が天下を掌握すると宗門の統一支配の面から、総寧寺の住職に全国曹洞宗寺院の総支配権を与え、一宗の大僧録に任じたのである。しかも歴代住職は十万石大名の格式を以て遇せられ、江戸小石川には邸が与えられた。総寧寺の格式の高さは今日に残る下馬石によっても分かる。
 明治五年(一八七二)学制の施行によって、第一学区の大学校舎を総寧寺境内に建設することになったが、それは後、陸軍用地となり、昭和三十三年現在の里見公園となった。
 本寺の境内には、関宿より移された小笠原政信夫妻の供養塔である二基の五輪塔、小川稽古斎碑をはじめ、国府台合戦にまつわる夜泣石等を存する。
  昭和五十四年三月  市川市教育委員会」

  

<寺号標>

 「曹洞宗里見城跡總寧寺」

   

【石仏群】

 参道左手の石仏群です。

    

<祠内の石造物>
 左の石塔には線刻の巡礼姿が刻まれています。
 中央の台石には「西國三十三」の文字が刻まれているので、観音霊場の札所碑ですかね。
 右には弘法大師像があります。弘法大師霊場もあったのですかね?

      

<庚申塔>
 元文4(1739)銘の庚申塔です。三猿は良く形をとどめていますが、青面金剛は欠けています。

   

<十九夜塔/念仏塔>
 如意輪観音像が二基並んでおり、左が宝永7(1710)年銘の十九夜塔です。

   

 右が天和元(1681)年銘の念仏塔です。

  

<参道>

 現在の参道は中門の手前で直角に曲がります。
 江戸名所図会では、広大な境内で、大門から山門まで真っすぐな参道が描かれています。

  

<中門(楼門)>

 下部が石造りでその上に木造の楼閣が乗った中門です。

  

<無憂樹林(永代供養施設)>

 建築家・妹島和世氏の作品です。

  

<石の造形品>

   

<歌碑>

    

   

<小笠原政信夫妻供養塔> 市川市文化財

 下総国関宿城主・小笠原政信(右)とその室(左)の供養塔です。

 「市指定有形文化財 小笠原政信夫妻供養塔 二基
  指定 昭和五十四年四月二十四日」

     

<小川稽古斎碑>

 長文の漢文が刻まれています。

  

<本堂>

  


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