Discover 江戸旧蹟を歩く
 
 見沼代用水東縁

  ○ 東沼神社
  ○ 差間橋
  ○ 木曾呂の富士塚


東沼神社 川口市差間2-15-45

 かつては、旧差間村の鎮守の「浅間神社」です。
 明治41(1908)年に近隣の7社を合祀し「東沼神社」に改称。
 平成23(2011)年には、富士塚の修繕工事が行われ、見沼富士が復元されました。
 かつて東沼神社の浦和市大字大門に接する東側一帯の川口市差間1丁目及び2丁目は、広大な沼地で家は一軒もありませんでした。
 昭和50年代に沼が埋立てられ宅地化されました。
 住所地「川口市大字差間字沼内」や、東沼神社の神社名にかつて沼があったことを示しています。
 注意事項の掲示が多い神社となってしまい、差間の新住民との関係が密ではないように感じます。

    

  

 参道中央の掲示、鳥居中央の掲示

   

(説明板)
「東沼神社 鎮座地 川口市差間一二六四
一、創立 不詳
二、祭神 木花咲耶姫命(安産・子育て・縁結びの神)
  素戔嗚尊(厄除・災難除去の神)
  倉稲魂命(農・工・商繁栄の神)
  菅原道真公(知識・学問の神)
三、由緒
●木花咲耶姫命を奉斎した浅間神社として天正元年(一五七三年) 以前に創立される
●明治四十年五月二十九日、差間村の菅原社・稲荷社、間宮村の大白天社・氷川社北原村の稲荷社、行衛の稲荷社・天津社の合社により社名を東沼神社と改称される
●明治四十四年十一月二日 大門村社 神饌幣帛共進神社に指定される
●昭和二十七年三月一日 宗教法人東沼神社として神社本庁に所属する
●昭和五十九年五月三日 第四期神社振興対策モデル神社に神社本庁より指定される
●昭和六十二年三月二十九日現社殿竣工により遷座祭 五月三十一日竣工奉祝祭が施行される
四、境内社 御嶽社・木花咲耶姫命の父大山祇命を祭る
五、祭儀
  大祭十月八日・中祭七月一日・小祭一月一日
  その他 月次祭・祝月祭」

  

<見沼富士>

 平成23(2011)年に、富士塚の修繕工事が行われ、見沼富士が復元されました。

     

(説明板)
「悠仁様御誕生記念 富士山復元
 「見沼の東に富士山あり」
 いつ頃富士山が造営されたか定かではないが、天保十一年の絵馬に富士山が描かれている。
 風雨により崩れた富士塚を五百分の一の富士の山に復元した。
 霊験あらたかなる富士山信仰の先達、扶桑教丸岩一信講大教正は、五十三度ここから歩いて富士吉田口より富士山登頂を成し遂げた。総勢二十人から二百人程 先人の足跡を記す。
 近隣川口市、さいたま市、越谷市、草加市で唯一の富士山であり、頂上からは富士山、秩父連山を望み、日の出を拝むことができる。
 永久に美しい富士山である。
 標高八米 裾野三十米
   奉納(宮司)鯨井幸寿
   施行(株)修和(代)染谷修
  (第三代宮司)鯨井幸典 記
  平成二十三年七月一日
  杜深き東沼神社あれかしこ 守り幸わふ見沼の富士よ」

   

 登山道入口

    

   

 見沼用水側に富士塚の登山道があります。
 一号目と三合目の号目石が見えます。登山禁止の掲示があるので詳細不詳。

    

 登ることができる登山道にある「七号目」「八号目」の号目石です。

   

 山頂 浅間社の石祠と「浅間大神」

    

   

<力石>

 力石が三基置かれています。

(説明板)
「力石(大磐石)
 江戸時代・明治・大正・昭和の初めにかけては、村祭りには相撲と力くらべが盛んでした。
 右の石は今から二、三百年前に氏子が奉納し、力くらべをして楽しんだ石です。
 左の石は当町七〇三番地に生まれた森田豊三氏(明治三十二年一月死去)が若い頃川口市峯八幡神社での力くらべで持ち上げ東沼神社に運んで来て奉納した石です。土に埋まっていたものを見つけてここに復元しました。
   昭和五十九年十一月吉日  東沼神社 宮司」

     

  

<裏参道>

 見沼用水東縁に面した裏参道側の赤鳥居です。

   


○見沼代用水東縁 差間橋 川口市差間2丁目

 東沼神社裏の赤鳥居は、見沼代用水東縁に面しています。
 見沼代用水東縁に架かる「差間橋」です。

    

    

     


木曽呂の富士塚 国重要文化財 川口市大字東内野594

 寛政12年(1800)に富士講の一派である丸参講の信者である蓮見知重の発願により築造されました。
 塚全体は盛土で築かれており、お中道・胎内めぐりの穴などが設置され、富士講築造の富士塚としては埼玉県内最古のものです。
 全国に五基ある国指定重要有形民俗文化財の富士塚のうち、いつでも登れるのはここだけです。

   

(説明板)
「国指定重要有形民俗文化財 木曽呂の富士塚
   昭和五十五年四月二十四日指定
 富士塚は、富士山を模して築造した塚で、江戸高田の行者藤四郎が、老若男女だれでも心やすく、富士山に登山できるようにと、安永九年(一七八○)、高田水稲荷(みずいなり)の境内にこれを築いたのが始まりである。
 木曽呂の富士塚は、地元で“ふじやま”または“木曽呂浅間”と呼ばれ、寛政十二年(一八○○)に、富士講の一派である丸参講(まるさんこう)の信者蓮見知重(はすみともしげ)の発願によって、見沼代用水と通船堀(つうせんぼり)の連結点の縁に築造されたもので、高さ五・四m 直径二○m、塚全体が盛土で築かれている。頂上には、お鉢めぐりができるように火口が掘ってあり、又、塚を貫いて胎内くぐりの穴を設けている。
 富士塚の麓には、文化二年(一八○五)造立の蓮行知道居士(蓮見知重)の碑があり、富士塚築造の由緒が刻まれている。この他、塚ならびに周囲には、享和四年(一八○四)の石燈籠、天保四年(一八三三)の石鳥居等、丸参講によって造立された石造物が多く残されている。
富士塚の中でも古い築造で、特に富士講が築造した埼玉県下のものでは最も古く、庶民信仰の様相を示すもので、貴重である。
 木曾呂富士塚造営物
1 燈籠         10 富士登山三十三度修業(高津条之助)碑
2  〃         11 伊勢太々碑
3 鳥居         12 鹿島大々碑
4 御手洗石       13 登山隔年修行碑
5  〃         14 登山三十三度(真行明山)碑
6  〃         15 経碑
7 墓誌(築造富士由来) 16 石官
8 石仏         17 シモガミ
9 地蔵尊像
  文化庁
  埼玉県教育委員会
  川口市教育委員会」

   

<石燈籠>

 享和4(1804)年造の石燈籠です。

  

<鳥居>

 天保4(1833)年に造立の石鳥居です。

   

<手水鉢>

  

<熊野神社>

   

「富士登山三十三度修業碑」「伊勢太々講碑」「鹿島大々講碑」「登山隔年修行碑」「登山三十三度(真行明山)碑」

     

「蓮行知道居士(蓮見知重)の碑」

   

<皇太子殿下行啓記念樹>

 今上陛下が皇太子殿下の際、平成18年2月14日にこの地を行啓されたことを記念する記念樹です。

  

<社殿/お中道>

 社殿左から「お中道」を廻ります。

   

<冨士嶽神社>

 お中道の途中に石祠「富士嶽神社」があります。
 石祠に「冨士嶽神社」と刻まれています。明治5(1872)年の再建。

   

<山頂>

 奥宮はありません。

        南方向                 北方向                西方向 
    

<御胎内入口>

   


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