(参考)
弘法大師がこの地に井戸を掘り、井戸水を加持すると赤くなりました。
旧地名「赤井」の由来となっています。
【閉館】能見堂赤井温泉
切通しを進んでくると、右手に標柱「能見堂緑地」があります。
標柱「能見堂緑地」
「能見堂緑地ハイキングコース案内 横浜市緑政局 H16.3」
三つの方向に道が連なっています。中央の道を行きました。
左の道は帰りに通ってきました。
「広場」
能見堂跡手前の広場です。
能見堂は、寛文年間(1661〜1673年)に地頭の久世大和守広之が、芝増上寺の子院をここに移設し再興した擲筆山地蔵院です。
地蔵院は、明治2(1869)年正月、火災により焼失しました。
元禄7(1694)年、心越禅師が故郷の景色を偲んで、ここから見た金沢八ヵ所の勝景を漢詩に詠んだのが「金沢八景」のはじめで、
歌川広重がこの地を題材に「武州金沢八景」八連作を描いたことで江戸後期には庶民が遊山に訪れるようになり、
交通の要所でもあった能見堂の隣には茶店も設けられ立ち寄り地として大変賑わいました。
現在は、享和3(1803)年に江戸の庶民百数十人によって建てられた「金沢八景根元地」の石碑が残っています。
(標柱)
「横浜市地域史跡 能見堂跡」
「昭和六十三年十一月一日登録 横浜市」
「平成二十年三月」
<金澤八景根元地碑>
享和3(1803)年の建立です。
(説明板)
「能見堂跡
この場所には、明治初め頃まで「擲筆山地蔵院」という寺院があり、能見堂と呼ばれていました。
「能見堂」の名が出てくる一番古い資料は、室町時代の文明十八年(一四八六)『梅花無盡蔵』で、これに「濃見堂」の名が出てくるので、この時代に能見堂があった事がわかります。古くは、濃見堂、のっけん堂、能化堂などとも呼ばれていました。
しかし、始まりいつかは不明で、江戸時代に書かれた『能見堂縁起』では、平安時代藤原道長が草庵を始まりとしています。
なぜ能見堂の名が付いたのかと言うと、よく見える(能く見える)からとか、巨勢金岡という絵師がこの景色を描こうとしたが、あまりの美しさと潮の満ち干の変化のため描けず、筆を捨てのけぞったから(のけ堂)とか、地蔵を本尊とする六道能化の意味からなど、その他いろいろな説があります。
能見堂は、初め小さな辻堂でした。また、それさえも無い時代がありました。それを江戸時代の寛文年間になってこの地を領地とした久世大和守広之が、江戸増上寺の廃院であった地蔵院をここに移して再建し、寺院としての能見堂の歴史が始まります。
交通の要所でもあった能見堂は、眺望がすばらしかったので、その景色を中国の「瀟湘八景」に当てはめて、古くから人々は、「金沢八景」呼んでいました。その事が、慶長十九年(一六一四)に書かれた『順礼物語』という本に出てきます。徳川家康もこの景色を愛し、江戸城の襖絵にもここからの景色が描かれています。その後、心越禅師が能見堂に来て「金沢八景」の漢詩を詠んだ事で有名になっていきました。
多くの文人墨客たちもこの地を訪れるようになり、それを紀行文や詩、歌などに残し、絵師たちはここからの絵を描きました。また境内に碑なども建てられ、能見堂からは案内図(図2)などが売り出されました。
図1は、天保五年(一八三四)に出版された『江戸名所図会』に描かれた能見堂の様子ですが、繁栄していた当時の姿を知る事が出来ます。本堂は二間半(四・五m)四方で、本尊は地蔵でした。大きな松は、巨勢金岡の伝説がある筆捨の松で、その手前で、望遠鏡から景色を見ている人もいます。
能見堂は明治二年(一八六九)に火事になり、その後住職もいなくなります。その上鉄道や他の道も出来たたため、さびれて、訪れる人も次第に少なくなってしまい、そして今は「金澤八景根元地」の碑などが、当時の面影を留めるだけになってしまいました。
2009年9月 金沢区役所 能見堂跡地整備プロジェクト」
「江戸名所図会 能見堂擲筆松」
平安時代、宮廷絵師巨勢金岡が金沢の入り江の勝景を描こうとしましたが、
あまりの絶景に絵を描くのを断念し、絵筆を松の木の根元に投げ捨てた(筆捨松)との伝説があります。
この「捨筆松」は、大正9(1920)年の大風で折れ、さらに太平洋戦争末期の松根油を取るために根元から掘り出されてしまいました。
「東海道風景図会 能見堂峯捨松より金澤八景眺望」(広重)
能見堂の筆捨松からの眺望を描いています。
広重作「金沢八景」の画題が8カ所記されています。
「武陽金沢八景夜景」(広重 東京国立博物館蔵)
能見堂からの眺望を描いています。中央に野島が見えます。
<能見堂跡の石碑>
(説明板)
「一方句碑
露落てなを静也峯の月
建立年も、句を作った一方についても詳細は不明だが、建立者の雁金屋清吉は、享保十九年(一七三四年)創業の江戸の有名な書肆(本の出版、販売元)であった。
江耆楼美山句碑
百八の鐘の別れやほととぎす
美山は江戸吉原の遊郭の主人。俳諧を嗜み雪中庵対山門下。文化九年(一八一二)息子にあたる二世美山が、父の書いた物が、紙魚(紙を食べる虫)の住み家にならないよう、父の愛した能見堂にそれを埋め、その上に不朽の碑を建てたと裏面に刻まれている。
武蔵国金澤碑
安永七年(一七七八年)春、金沢に遊んだ岡部四溟が、能見堂に泊まり、
当時、荒れはてた金沢文庫を訪れた。人の造ったものは荒廃するが、自然の美しさは永遠であると気づかせてくれた能見堂からの美しい景色に感慨を覚え、この碑を建てた。
岡部四溟は、幕臣で、『四溟陳人詩集』によって名を知られた。」
山室宗a居士墓碑
江戸の医者鈴木宗aの墓で、かつて筆捨松の根元にあった。
能見堂の景色を愛した宗aは、ここに生前の享保十六年(一七三一年)に墓を建て、その後明和八年(一七七一年)に亡くなってから、墓に辞世の歌を加え、この場所に葬られた。
月雪も花ももみしもむかしにて けふそうきよの夢はさむらん
金澤八景根元地碑
享和三年(一八○三)建立。碑の銘文は、江戸の書家図南田翼(小田切東次郎)が書き、裏面には百数十名の江戸の人たちの名前が列記されている。
能見堂跡の石碑について
江戸時代から今日まで、能見堂に残されていた碑は、唯一金沢八景根元地碑だけであった。
平成二十一年、明治時代に能見堂から富岡に移されした石碑三点(山室宋a居士墓碑、一方句碑、武蔵國金澤碑)が地域の文化財として活用されることを願う所有者の方から金沢区に寄贈され平成十六年に、野島から能見堂階段下に移された美山の句碑とともに、能見堂跡に戻る事となった。
これらの石碑は江戸の知識人たちが、この場所をいかに愛していたかを物語っている。
二○○九年九月 金沢区役所 能見堂跡地整備プロジェクト」
「一方句碑」「江耆楼美山句碑(表)」「江耆楼美山句碑(裏)」「武蔵国金澤碑」
「擲筆院山室宗a居士」墓碑
<丸井一堂君之碑>
<井戸の跡>
能見堂跡から階段を下りて、案内板右手の急な階段を下りていきます。
石橋を渡ると、不動池です。
谷津関ヶ谷不動尊脇につくられた池のため不動池と名付けられました。
不動尊は、もともとは谷津川の水源地を守り、水源地近くにありました。
昭和62(1987)年の京浜急行株式会社による宅地開発で現在の場所に移りました。
なお谷津川は金沢文庫駅の線路沿いに流れる川で、ほとんどは暗渠となっています。
(碑文)
「遷座記念
染井、片吹、五字谷戸、研山、関の谷戸の奥深き谷あい、老杉、雑木生い茂り緑濃き杜に、五十数段の石階の頂、片吹二七四-二番地に谷津関が谷不動尊が鎮座されていた。創建は不詳だが昔より村人の信仰篤く、毎年一月二十八日に初不動祭りが盛大に今もなお続いている、境内裏の谷間より滾滾と清水が湧き出し、現在も谷津川の水源地である。かつては金沢文庫駅一帯までの水田に灌漑用水とされていた。往時には。刀匠達が滝で斎戒沐浴したとの伝説がある。滝は関東大震災で崩壊した。境内周辺は四季折々種々の野鳥のさえずりがきかれ、初夏には蛍が飛びかい、秋には蜻蛉が群れ飛び、小川のせせらぎも聞かれた。閑静な素晴らしい環境の谷戸であった。たまたま京浜急行株式会社の宅地造成により此の地に遷座した。
撰文 石川 武」
<不動尊/手水鉢/不動堂>
不動尊から、不動池南側の通路を「能見堂跡 金沢文庫」へ進みます。
「G4」及び「G3」地点
この先で、大きく眺望が開けます。
能見堂跡の南側にある「休憩広場」です。
説明板がいくつか設置されています。
(説明板)
「金沢八景と能見堂
昔の金沢は、内海が当地の下まで入り込んでおり、ここ能見堂からの眺めは素晴らしかった(復元地形図参照)。
東方には房総の山並みから江戸湾、湾に浮かぶ島々、平潟湾、南方には三浦半島の山々、そして、西方には霊峰・富士までが一望できたのである。
平安時代初期の宮廷絵師・巨勢金岡がここから金沢の景勝を描こうとしたが、内海の干満で時々刻々と変化する絶景に筆が進まず、ついに絵筆を松の根元に投げ捨てたとの言い伝えに因む「筆捨松」の伝説も残っている。
江戸時代の元禄の頃、中国出身の亡命僧・心越禅師この地を訪れ、ここからの風景が瀟湘八景に似ていたことから、「小泉夜雨・瀬戸秋月・洲崎晴嵐・内川暮雪・平潟落雁・野島夕照・乙艫帰帆・称名晩鐘」と題した金沢八景の漢詩を詠んだ。これが現在、我々が知る金沢八景といわれている。
この頃の金沢の地は鎌倉・江ノ島と一体となった観光地であった。そして、歌川(安藤)広重をはじめとする多くの絵師や文人墨客により「景勝地・金沢八景」が紹介され、多くの旅人で賑わった。また、このハイキングコースの一部は、当時、保土ヶ谷宿から金沢への主要道(金沢道)であった。
図1は1853年に歌川広重が描いた当地からの眺望図で、描かれた島は左から猿島、夏島、烏帽子岩、野島。中央の橋が、瀬戸橋。右側には筆捨松、等である。
図2は17世紀の地形に人の手が加えられない時期の復元地形図で、△は能見堂。
2009年9月 金沢区役所 能見堂跡地整備プロジェクト」
「明治時代の写真。
左に野島、中央に瀬戸の内海から洲崎・瀬戸橋をはさんで平潟湾を、右に瀬戸神社の森が一望できる。瀬戸の内海は埋め立てられている(泥亀新田など)が、八景一覧の面影を残している。
2009年9月 金沢区役所 能見堂跡地整備プロジェクト」
「明治時代の写真。
金沢からの保土ヶ谷道をのぼると、「筆捨松」が一際高く見え。その下には「金沢八景根元地」石碑が見える。
右の台地には石灯篭なども残る。
2009年9月 金沢区役所 能見堂跡地整備プロジェクト」