光縁山勢至院大蓮寺と号します。
行徳・浦安観音霊場三十三ヵ所33番です。
<石柱山門>
石柱山門を入ってすぐ右手に、2枚の説明板が設置されています。
<宇田川六郎兵衛墓>
(説明板)
「宇田川六郎兵衛墓
宇田川六郎兵衛は、天保四年(一八三三)、堀江村で生まれました。昌平坂学問所(神田湯島にあった江戸幕府直轄の学問所)で学び、その後、自宅に学問所を開き、子どもを教育しながら、剣道も教えていました。
明治時代に入った頃のことです。魚介類を藩船で日本橋の魚河岸に運ぶ際、中川番所(現在の江東区大島)の検査に時間がかかり、魚介類が腐ってしまうので、人々は困っていました。これを知った六郎兵衛は代官と交渉し、以後堀江村の運搬船は無検査え通れるようになったといわれています。
他にも、村同士の争いを解決するなお、村民に信頼されていました。
また、六郎兵衛は漁民の収益増大を図るため、中洲(浜町がし)に「〇宇(まるう)」と称する魚市場を開設し、漁民から感謝されました。
六郎兵衛は多くの人に信頼され、業績を残しましたが、明治二十六年(一八九三)、六十歳でこの世を去りました。
平成二十三年三月 浦安市教育委員会」
宇田川六郎兵衛墓(子育て地蔵の左横にあります)
(説明板)
「大塚亮平顕彰碑
大塚亮平は、嘉永二年(一八四九)、堀江村に生まれました。若い頃から俳句を好み、秋江菴釣月と称していました。明治五年(一八七二)学制が施行されるや翌六年に、浦安で最初の小学校である「堀江小学校」を創設しました。八年には堀江村学校事務掛を努めたほか、戸長や堤防取締を兼務し、また宮内省御用掛、江戸川筋猟場監守など数々の公職も歴任しました。
また、明治十七年(一八八四)からは、堀江村の漁業組合長、さらに東京湾水産諮問会郡総代を努め、水産界でも活躍しました。
明治十八年(一八八五)、亮平は村民の生活を豊かにしようと、浦安(「浦安」の名称は明治二十二年から)、葛西、深川などの有志とともに海苔養殖事業を計画し、深川に海苔養殖場を設置するため、東京府に出願しました。当初、人々はこの事業の将来性が理解できず、反対もありましたが、亮平はあきらめずに人々に説得にあたりました。そして、翌十九年には東京府に出願した深川越中島地先の十万坪のうち、浦安では一万五千坪の使用権を取得しました。
後に海苔養殖は、浦安の基幹産業になりますが、亮平はこの事業の盛況を見ることなく、明治二十二年(一八八五)に四十一才でこの世を去りました。
この碑は、多くの分野で貢献した業績を讃え、村民によって、明治二十五年(一八九二)に建てられました。
平成二十三年三月 浦安市教育委員会」
大塚亮平顕彰碑(本堂左横の施錠された扉内にあります)
<山門>
<水子地蔵尊>
<勢至堂>
<本堂>
「阿弥陀如来諸菩薩来迎之庭」
「藥師如来瑠璃光淨土之庭」
<鐘楼>
<愛玩動物供養塔>
馬頭観音が祀られています。紀年は確認できず。
<札所碑と弘法大師像など>
「第33番札所碑」や「弘法大師像」などが置かれています。
<黒門>
旧福岡藩江戸藩邸移築屋敷門です。
個人の名前のついた神社です。
(説明板)
「久助稲荷
久助稲荷は、相模国小田原の大蓮寺境内に祀られている福徳稲荷の分身として、天文十三年(一五四四)、堀江村の大蓮寺創建と同時に建られたものといわれています。
大蓮寺第五代住職頓誉上人には、学誉という弟子がいました。仏門において一心に勉学に励んだ学誉は、後に、芝増上寺の第三十九代法主を務める大僧正になりました。
ある日のこと、学誉上人の住まいの庭先に、大蓮寺にいたころ仕えていた使用人の久助が立っていました。久助は、大蓮寺の稲荷様が荒れ果ててしまったので復興したいと、学誉上人に頼みにきたのでした。学誉上人は、大蓮寺にいた若いころ、稲荷様に祈願したことを思い出し、久助に改築を約束しました。
学誉上人は、早速京都伏見稲荷へ使者を出し、正一位の神位を受けると、久助との約束を果たすという手紙を添えて、稲荷神社の建設費用を大蓮寺に送りました。
ところが、久助は二十数年前に亡くなっていたのでした。学誉上人は、稲荷様の身代わりになって現れた久助の志に深く感動し、享保十三年(一七二八)、「久助稲荷」と名前を改め社殿を新築しました。
毎年五月中旬には、お稲荷様のお祭りが行われています。
平成二十六(二○一四)七月 浦安市教育委員会」