【堀江】
○ 境川
・説明板「境川」
・名所江戸百景
堀江ねこざね
・境川西水門
○ リンド技師功績記念碑
○ 堀江水準標石 別頁
○ 浦安役場跡
【堀江の寺社】別頁
○ 清瀧神社
○ 宝城院
○ 大蓮寺
○ 久助稲荷
境川は江戸川の分流で、浦安市を流れ東京湾に注ぐ河川です。
左岸の猫実村と右岸の堀江村の境界をなすことから名づけられました。
江戸川の真水が流れることから、井戸水に塩分が含まれるこの地域では飲料水として、また、漁港として、両岸に集落が立地しました。
境川西水門から境川上流
境川下流の新橋袂に説明板「境川」が設置されています。
(説明板)
「境川(さかいがわ)
昭和三十三年(一九五八)、準用河川として指定
昭和四十年(一九六五)、一級河川として指定
境川は、江戸川の支流で、本市の中央を西から東へながれ、東京湾に注いでいます。
かっての境川は、長さ一・七キロメートルほどの小さな川でしたが、昭和四十年(一九六五)からの海面埋立事業によって、川の長さも三倍の約四・八キロメートルになりました。
江戸時代には、人々は境川の両岸に密集して民家をたて、北側が猫実村、南側が堀江村として、それぞれ集落を発展させてきました。
川の水は、昭和二十年代ごろまでは、川底が透けて見えるほど美しかったといいます。人々は、長い間この川の水を飲み水や炊事洗濯などの生活用水として利用してきました。
また、漁業を生業としていた人々にとって、境川は「海への玄関口」として大切な役割を果していました。かつては、二千艘近くの船がびっしりと係留されており、とってきた魚介類を荷揚げする光景があちらこちらで見られました。
しかし、昭和四十六年(一九七一)に漁業権が全面放棄されると、それらの船は役目を終えて姿を消していきました。こうして、境川の風景も次第に漁師町の面影を失っていきました。
平成十六年一月 浦安市教育委員会」
中央を流れる境川を挟んで左が堀江村、右が猫実村です。
境川に架かる手前の橋は境橋です。
旧江戸川上流にある行徳河岸場の2艘の船の帆柱が見えます。
遠景に富士山が見えます。手前には鳥の猟が描かれています。
境川西水門です。堤防の壁に周辺案内図が掲示されています。
○リンド技師功績記念碑 浦安市堀江4-4-28 境川西水門堀江側広場
平成21(2009)年、日蘭通商400周年を記念し、イザーク・アンネ・リンド技師功績記念碑が設置されています。
この記念碑は、オランダ政府から寄贈されたものです。
記念碑には、日本語とオランダ語で、リンド技師の生い立ちや日本での業績が記されています。
清瀧神社境内には「水準標石」が設置されています(こちらで記載)。
リンド技師は、明治5(1872)年にオランダから来日し、明治8(1875)年まで、日本で活躍した土木技師です。
(碑文)
「イザーク・アンネ・リンド技師(1848〜1941)はオランダのアーネム市に生まれ、1872年(明治5年)23歳の時に来日し、
1875年(明治8年)までの4年間日本で活躍した土木技師である。リンド技師は江戸川及び利根川筋に水位標を設置し、水位観測を開始した。同時に江戸川河口の堀江から利根川河口まで測量を行い、清瀧神社(浦安市堀江4-1)境内に境内に「水準標石」を設置した。そして堀江水準標の零位をY.P.(Yedogawa
Peil)とした。Y.P.は現在も利根川・江戸川の工事用基準面として使われている。これら日本における近代測量の基礎を成したリンド技師の功績を称え、ここに記念碑を設立する。」
オランダ語碑文
測量に当たるリンド技師レリーフ
新川新橋の南側に「浦安町役場跡碑」と説明板「浦安町役場跡」があります。
(碑文)
「ここ浦安町堀江古田四三六番の一の地は 明治二十八年四月五日浦安村以来大正時代を経て 昭和四十九年十月三十一日まで浦安町役場があった所です
この銅板写真の役場庁舎は明治四十四年二月二十日に完成し 今の六階建ての庁舎に移転するまで使用していた古い庁舎で 当時としては極めてモダンな建物で 瓦葺平家和洋折衷造りで 浦安町の自慢の一つでありました またこの位置は豊かで清らかな江戸川の流れ込む境川に沿って 役場のほか 漁業組合 罐詰工場 貝むき場などが軒をならべ 魚貝や海苔を満載した舟の櫓耀のきしみは時代の移りと共にエンジンの響と変っていきました
そしてこの七十余年の永い間 汐の香に育ぐくまれて 村政から町政へと自治の花が咲き続けてきた由緒ある所です
今ここに往時を偲び碑を建て記念とします
昭和五十二年十月 浦安町」
(説明板)
「浦安町役場跡
ここは、昭和四十九年(一九七四)まで「浦安村(町)役場」の庁舎があったところです。
江戸時代、ここには堀江村の郷蔵(年貢米を貯蔵する倉庫)がありました。明治六年(一八七三)に学制(我が国初の学校制度を定めた教育法令)が施行されると、堀江村の大塚亮平は、この郷蔵だった建物を改造し、浦安で最初の小学校である「堀江小学校(のちに浦安尋常小学校分校)」をここに創設しました。
明治二十二年(一八八九)、堀江村・猫実村・当代島村の三ケ村が合併して、「浦安村」が誕生しました。合併後すぐに役場庁舎を建設することはできなかったので、しばらくは猫実のある民家を借り受けて、村の行政は行われていました。明治二十七年(一八九四)、浦安尋常小学校の校舎が猫実に新築され、学校がそちらへ統合して建物が空いたため、ここに浦安村役場を設けることになりました。土地は、堀江村の新井甚左衛門外六十七名の共有地だったものが、三ケ村の合併後、浦安村に寄付されたものです。
その後、建物の老朽化により、新しい役場の建設計画が進み、明治四十四年(一九一一)、この地に浦安町役場が建てられました。瓦葺平屋建て、和洋折衷造りの当時としては極めてモダンな建物で、「浦安には過ぎたるもの」と言われることもあったそうです。町役場の隣には、漁業協同組合の事務所も開設され、浦安の政治・経済の中心として、この地は栄えていました。
昭和四十年代に入ると、海面埋め立てによって町城が拡大、人口も増加し、この庁舎では行政事務の増大に応じることが難しくなったため、旧市街地と埋立地との接点にあたる「猫実一丁目一番一号」に、新庁舎が建設され、昭和四十九年十一月一日から業務が開始されました。
漁業権放棄によって、漁業協同組合は解散となり、町の中心地であったこの地の面影も次第に失われ、境川の流れを残すのみとなりました。
平成二十六年(二〇一四)七月 浦安市教育委員会」
※説明板に記載のある大塚亮平の顕彰碑が大蓮寺にあります(こちらで記載)。
<浦安村初代村長と浦安町役場庁舎>(浦安市郷土博物館展示)
<大松>
(説明板)
「大松
かつて、旧浦安町役場に隣接したこの場所に、樹齢二百年以上、高さ八メートル、幹の周囲二メートル、枝の広がりは十メートルにも及ぶ大きな松がありました。
水面をはうように伸びた下枝は、鳳凰が翼を広げているように見え、特に対岸の猫穴からの眺めは見事なものでした。ここを通る人は、足を止めてこの大きな松に見とれ、感嘆したともいわれています。
しかし、漁師町浦安のシンボル的な名木も、昭和十五年(一九四〇)に浦安橋が開通し、町内の交通量が増えた頃から、次第に木の根のいたみが進み、昭和十七年(一九四二)に枯れてしまいました。
平成十年(一九九八)に発見された大松の幹の一部が、郷土博物館の屋外展示場「天ぷら屋(天鉄)」に展示してあります。
平成十六年一月 浦安市教育委員会」