【猫実五丁目】
○ 蒸気河岸
○ 船宿吉野屋
○ 渡し場跡(堀江の渡し、浦安の渡し)
○ 名所江戸百景 利根川ばらばらまつ
○ 東京メトロ東西線江戸川第一橋梁
【当代島】
○ 当代島公園(浦島太郎像)
「通運丸」の発着所があった「蒸気河岸」跡です。
浦安村〜浦安町の主な交通手段は、川蒸気船「通運丸」でしたが、大正8(1919)年には通運丸に代わり定期船「通船」「葛飾丸」が就航し、
浦安〜高橋(江東区)間を約1時間半で結び、発着所「蒸気河岸」は大変な盛況ぶりでした。
昭和15(1940)年に浦安橋が開通するとともに自転車、自動車の普及が進み、船の交通は、昭和19(1944)年に廃止されました(浦安市サイトより要約)。
(陸の孤島と言われた浦安町の船の交通が、自転車にとって代わられたというのが興味深いです。)
(説明板)
「蒸気河岸
このあたりは、かつて蒸気船「通運丸」の発着所があったところで、「蒸気河岸」と呼ばれていました。
通運丸は、明治十年(一八七七)内国通運株式会社によって運航された大型蒸気船で、東京深川や両国などから小名木川、新川を経て、江戸川・利根川一帯を定期的に運航していました。
大正八年(一九一九)には通運丸にかわり、東京通船株式会社<昭和三年(一九二八)に東京通運株式会社と改称>の定期船が、深川高橋から浦安を経由して行徳までを航行しました。高橋から浦安までの所要時間は一時間から一時間半でした。その後、葛飾汽船株式会社の経営する「葛飾丸」も営業を開始しました。これらの定期船を地元の人は、通称「通船」と呼んでいました。浦安から東京方面への行商や通学には、これらの定期船が利用されていました。
その後、葛飾汽船株式会社は、自動車の普及に伴い、経営が悪化してきたことから、昭和五年(一九三○)、東京通運株式会社に買収され、葛飾丸は就航を停止しました。さらに、昭和十五年二月、浦安橋が開通し、昭和十七年、東京市営バス(通称「青バス」)が浦安橋西詰まで開通したため、定期船の利用者は少なくなり、昭和十九年に廃止されました。
平成十六年一月 浦安市教育委員会
(写真:東京通船浦安発着所に停泊する通船 昭和初期)」
○船宿吉野屋 浦安市猫実5-7-10 HP
堤防の外に「船宿吉野屋」があります。
「山本周五郎著「青べか物語」の船宿千本」とあります。
山本周五郎は、舟宿・吉野屋の二階に半年ほど寄宿していました。
江戸時代末期から明治時代初期にかけて、旧江戸川対岸の堀江飛地(現在の江戸川区南葛西)の農地耕作のため、
「堀江の渡し」がはじめられたといわれています。
堀江の渡しが廃止された後、明治43(1910)年には、対岸の東長島(現在の江戸川区東葛西)を往復する「浦安の渡し」が開かれました。
(説明板)
「渡し場跡
江戸末期から明治初期にかけて、旧江戸川対岸の堀江飛地(現江戸川区南葛西)の農地耕作のため、「堀江の渡し」が内田平次郎によってはじめられました。待合所は、堀江四丁目四六九番地地先(現境川西水門堀江側)にありました。
その後、この渡しは廃止され、そのかわりにこの場所に待合所ができ、ここから対岸の東長島(現江戸川区東葛西)を往復する「浦安の渡し」が開かれました。所要時間は二○から三○分ほどかかったといわれています。町が営業権を所有していましたが、明治四十三年(一九一○)から希望者を募って、入札で渡し船を請け負わせました。渡し船は、主に伝馬船を使っていました。大きさは、長さ三間(約五・四メートル)、幅一間半(約ニ・七メートル)くらいで、昭和初期の渡し賃は、大人ニ銭、子供一銭、自転車三銭、小車四銭であったといいます。(当時のアンパン一つの値段が三から五銭くらい)
昭和十五年(一九四○)の浦安橋開通により、対岸へは徒歩や自転車で渡れるようになったため、渡し船は、その役目を終えました。
平成十六年一月 浦安市教育委員会」
江戸名所百景の中で場所の記載がなく、描かれた場所が確定していない1枚です。
広重の時代には、「利根川」とは、今日の旧江戸川のことです。
旧江戸川の妙見島付近から、上流方面を望んでいるという説が有力なようです。
江戸川の名産である鯉を採るため投網が打たれています。
左手から進んでくる船を拡大すると、新川では曳船で航行するための杭が見えるので漁船ではなく行徳船と推察します。
妙見島上流の新川河口付近の右手に大きく湾曲していく手前の江戸川を猫実から描いていると推察します。
「絵本江戸土産 利根川 ばらばら松」(広重)
挿絵には「坂東一の大河なれば異名を坂東太郎とよぶ 鯉をもて名品とす 川風に揉れ屈曲して松は自然の振をなし 眺望尤勝れたり」とあります。
浦安橋の下流に架かる「東京メトロ東西線江戸川第一橋梁」です。
屋形船「たかはし丸」(HP)の屋形船「天馬」が通過していきました。
亀に乗る浦島太郎像です。