【猫実】(4〜1丁目)
○ 猫実の庚申塔
○ 境橋(おっぱらみ)
○ 秋山の金魚池跡
○ 浦安市郷土博物館 別頁
【美浜】
○ 浦安町漁業記念碑
「庚申通り」入口右手に、正徳5(1715)年銘の庚申塔が祀られています。
「庚申通り」入口左手には、「庚申堂」があります。
(説明板)
「猫実の庚申塔 昭和五十七年(一九八二) 市指定有形文化財
この庚申塔は、正徳五年(一七一五)一月、猫実村の庚申講の信者によって建てられました。青面金剛菩薩を刻んだ庚申塔では、市内で最も古いものです。
塔の正面には、邪鬼(たたりをする神)を踏みつけておさえている青面金剛菩薩、庚申の干支にちなんで「見ざる」「聞かざる」「言わざる」の三猿が刻まれています。
庚申信仰は、もともと道教(中国の民間信仰から発達した宗教)の三尸説に始まったものです。三尸説では、六十日に一度の庚申の夜に、人の体内にいる三尸の虫が抜け出し、天の神様にその人が犯してきた罪を告げるのだといわれています。これを聞いた天の神様は、その分だけその人の命を削りとり、早死にさせるので、この虫が抜け出ないよう、信者たちは夜どおし話や会食をして過ごしました。
ただし、この地域では、庚申の暁に祭礼を行ったというような記録は残っていません。大正時代には、毎月二十五日が祭礼日とされ、現在でもこの日に病気の回復などが祈願されています。かっては、祭礼の日には、お堂の前の道に露店が立ち並び、多くの参拝者でたいへん賑わったといわれています。
今日でも、先人たちの信仰心が脈々と受け継がれ、この塔は「猫実の庚申様」として、地域の人々に大切されています。
平成十六年一月 浦安市教育委員会」
<力石>
九拾貫と刻まれた力石が据えられています。
<手水鉢>
手水鉢は2匹の猿がそれぞれ片手で手水鉢を担いでいます。
<題目塔>
「南無妙法蓮華経供養塔」と刻まれた題目塔です。
<神猿>
右の猿は扇を持っています。
<青面金剛供養塔>
大正2年銘と比較的新しい「青面金剛供養塔」です。
<庚申塔>
正徳5(1715)年銘の庚申塔です。
<地蔵堂>
弘法大師像と地蔵尊です。
<三峰神社>
<弘法大師像と地蔵>
境橋の猫実側に説明板「新川」と「おっぱらみ」が設置されています。
境川上流/境川下流
(説明板)
「境川(さかいがわ)
昭和三十三年(一九五八)、準用河川として指定
昭和四十年(一九六五)、一級河川として指定
境川は、江戸川の支流で、本市の中央を西から東へながれ、東京湾に注いでいます。
かっての境川は、長さ一・七キロメートルほどの小さな川でしたが、昭和四十年(一九六五)からの海面埋立事業によって、川の長さも三倍の約四・八キロメートルになりました。
江戸時代には、人々は境川の両岸に密集して民家をたて、北側が猫実村、南側が堀江村として、それぞれ集落を発展させてきました。
川の水は、昭和二十年代ごろまでは、川底が透けて見えるほど美しかったといいます。人々は、長い間この川の水を飲み水や炊事洗濯などの生活用水として利用してきました。
また、漁業を生業としていた人々にとって、境川は「海への玄関口」として大切な役割を果していました。かつては、二千艘近くの船がびっしりと係留されており、とってきた魚介類を荷揚げする光景があちらこちらで見られました。
しかし、昭和四十六年(一九七一)に漁業権が全面放棄されると、それらの船は役目を終えて姿を消していきました。こうして、境川の風景も次第に漁師町の面影を失っていきました。
平成十六年一月 浦安市教育委員会」
(説明板)
「おっぱらみ
ここ境橋附近は、境川のなかで最も川幅が狭いところで、かつては「おっぱらみ」と呼ばれていました。
「おっぱらみ」という地名が生まれたのは江戸時代で、隣の行徳地域が徳川幕府に保護された塩の生産地だったころのことです。
塩づくりは、五月から九月にかけて行われます。しかし、入梅時期で雨量が多くなると、江戸川が増水し、淡水が境川を経て海に流れ込むため、行徳地先の海水は塩分が薄くなり、よい塩ができなくなりました。そこで、行徳で塩をつくる人たちは、毎年梅雨どきには、川幅が最も狭いこのあたりを土砂や板を使ってふさいでしまうことを恒例としていました。
しかし、堀江・猫実の漁師たちは、海への玄関口である境川が通れなくなってしまうので、漁にでることができず大変困っていました。ある年、漁師たちは相談して、このあたりの土砂や板を強引に取り去ってしまいました。これを知った行徳の人たちが大勢おしかけて、再びふさいでしまおうとしたのですが、浦安の漁師たちは、団結してこれを追い払いました。それ以来、行徳の人たちもあきらめたのか、ここがふさがれることはなくなったといわれています。
この「追い払い」が「おっぱらみ」とかわり、このあたりをあらわす地名になったということです。
平成十六年一月 浦安市教育委員会」
昔、金魚を養殖していた大きな池の跡地です。
現在は、浦安市郷土博物館(こちらで記載)、浦安市役所第2庁舎、浦安市健康センターが建っています。
(説明板)
「金魚池跡
このあたりは、かつて地域の人々から「秋山の金魚池」と呼ばれていた金魚の養殖場があったところです。三九、六〇〇平方メートル(一二、〇〇〇坪)にも及ぶ大変大きな池でした。
この池は、はじめは鰻や鯉の養殖場として使われていました。大正十一年(一九二二)、東京市砂町(現在の江東区)で金魚の養殖業を営んでいた秋山古五郎
が買取り、ここで金魚の養殖を始めました。毎年、数十万匹もの金魚がここから全国へと出荷され、「関東一の金魚の養殖場」といわれていました。
秋山は、金魚の新種開発に大変貢献した人物として知られています。明治の中頃まで、金魚は、和金・流金・蘭鋳・和蘭獅子頭・出目金という五種類しか存在していませんでしたが、秋山の精力的な研究により、「秋錦」「朱文金」「キャリコ」「金襴子」などの新しい金魚が誕生しました。なかでも「秋錦」は、背びれのない丸い体と長い尾をもつ姿が、「水清き秋の池に紅葉をちらしたような美しさ」であるところからこのように名づけられ、たいへん評判を呼びました。
しかし、昭和四十年(一九六五)から始まった界面埋立事業で、周辺の都市化が進み、昭和五十八年(一九八三)には、この池も埋立てられました。
現在は、市の公共施設が建ち並んでいます。
平成十六年一月 浦安市教育委員会」
「浦安散策道案内図」
説明板「金魚池跡」の左に設置されている「浦安散策道案内図」です。
「猫実」に接する「美浜(みはま)」は、第1期海面埋立事業で昭和46(1971)年8月2日に誕生した埋立地です。
若潮公園に、浦安の漁業の歴史を刻んだ浦安町漁業記念碑があります。
昭和51(1976)年の落成です。
船と貝・魚のオブジェと、銘板「浦安町 漁業記念碑」です。
漁業記念碑の裏に、「碑文」と「浦安町漁業記念碑建設委員」の石板があります。
(碑文)
「この浦は四季折々魚介の産豊にして自然の恵み絶ゆることなく伝えられて八百有余年 その漁業盛んなる時漁家千八百戸を数え境川船圦川に漁船溢れ 漁民斉しく潤い町大いに賑い漁業の町浦安の名は青ベカの物語と共に広く天下津々浦々に及びしものなり
時遷りこの浦も邦家発展子孫繁栄の為国土の一端と変貌す 無為に非ざれど憶いは残り胸熱し
ここに碑を建てこの浦を恵みし自然を謝し 幾多先人先輩漁民が営々の私財を顧みず漁業の為に生命を捧げ研鑽努力惜しまざりし偉業を顕彰し 永き水産の歴史と伝統に培われし在りし日の漁業の記念として後世に伝うるものなり。
昭和五十一年十二月吉日 浦安町長 熊川好生」
(参考)
「大森の漁業記念碑」(こちらで記載)
「羽田の漁業碑」 (こちらで記載)