○ 野菊のこみち(矢切の渡し〜矢切橋)
○ 矢切橋
・野菊の墓100周年記念碑「野菊のような人」
○ 野菊のこみち(矢切橋〜大坂)
○ 矢切四季の道
○ 古戦場跡と野菊の墓文学碑
・大坂
・大井戸之碑
・古戦場跡
・野菊の墓文学碑
・野菊苑歩道橋
・野菊苑
・野菊のこみち終端
「野菊のこみち」の道標を求めて、矢切橋まで農道をたどります。
曲がり角ごとに「野菊のこみち」道標が置かれています。
「野菊のこみち」は坂川に突き当り、左に曲がって坂川沿いに進み、矢切橋に至ります。
「野菊の墓」の発表100年を記念して、松戸東ライオンズクラブが建てた碑です。
(碑文)
「野菊のような人
「……まア綺麗な野菊、政夫さん、私に半分おくれッたら、私ほんとうに野菊が好き」
「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好このもしいの。どうしてこんなかと、自分でも思う位」
「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。」
(プレート文)
「松戸の矢切を舞台とし、〔清純な愛の美しさ〕を描いた伊藤左千夫の小説『野菊の墓』は1906年(明治39年)1月[ホトトギス]に発表され評判となり、その後も多くの版が重ねられ映画化もされております。
作品が発表されてから100年を記念し、松戸東ライオンズクラブCN25周年(発足25周年)にあたり、この文学碑を設置します。
2007年5月吉日 松戸東ライオンズクラブ」
<野菊のこみち道標>
矢切橋の西と東に野菊のこみち道標があります。
<橋銘板>
橋名は「やきりばし」と濁りません。「平成四年三月竣工」です。
<欄干>
「欄干」に嵌(は)め込まれている渡し舟と、野菊の彫刻です。
<かいかば通り>
矢切橋の中央の歩道にプレート「かいかば通り」があります。
(プレート文)
「かいかば通り
このあたりの細流はしじみ貝のとれる貝かき場であったことからかいかば通りといわれているらしい」
「歴史の散歩道 松戸駅から矢切の渡しコース」
矢切橋の東側に「歴史の散歩道」の案内板があります。
「緑花清流さわやか松戸 松戸市長書
松戸東ライオンズクラブ 一九九九年三月」
ネギ畑が広がっています。
「野菊のこみち」は矢切橋から坂川に沿って下流に進みます。
途中まで「四季の道」と共用で、野菊のこみちは途中で左手に折れ、石畳の道は矢切の斜面林へ向かいます。
車道に出て、大坂へ続きます。
坂川の矢切橋より下流左岸約150メートルの花と緑の遊歩道が「四季の道」です。
ボランティアの方々によって四季折々の花が育てられています。
坂川の河口手前には「柳原水閘」があります(別途記載)
大坂は、西蓮寺の横を江戸川方面へ下っていく坂で、国府台合戦で北条氏と里見氏が戦った古戦場です。
大坂の改修で大井戸を埋めることとなり、昭和33(1958)年に碑が建てられました。
上水道の整備が進み大井戸は不要となっていたことが伺えます。
野菊苑には「水道記念碑」が建てられています。
(碑文)
「大井戸は江戸時代に掘られ爾来如何なる旱魃にも水の涸れた事なく常に生活の泉であり村人は田畑の往き歸りには喉を潤した然るに大坂の改修工事に當り埋めることとなる依って記念のため之を建つ
昭和三十二年九月吉日 下矢切區」
大坂の「野菊の墓文学碑」への階段脇に、木標識「古戦場跡」が建っています。
木標「史跡・永禄古戦場跡
永禄七年(一五六四)正月七日 打死一千人」
階段を上がった先に説明板「史跡 国府台の戦争」が掲げられています。
(説明板)
「史跡 国府台の戦争
今から約四○○年前、この国府台で二度の大戦争があった。それぞれ敵味方千人以上の戦死者がここに死かばねをさらした。
今の真間山から松戸駅東側の台地までを国府台といい、第一回の戦争は、天文七年(一五三八)十月七日、相模台の合戦ともいい、これを前の国府台合戦という。第二回はこれより二十五年後永禄七年(一五六四)正月七日の合戦でこれを後の国府台合戦という。それはここ矢切台で戦われた。
合戦の背景
この時代の関東地方はだいたい小田原の北条氏の勢力下にあり、松戸大谷口城主高城氏や、千葉氏、原氏などもその支配下にあった。これに対して安房上総地方を侵略して勢力を拡大した里見氏は、県北の下総地方にも手を伸ばして千葉、原、高城らを攻め、やがて北条氏をも破って関東の実権を握ろうと野望をいだいていて茨城の佐竹氏を通して上杉謙信とも手を結んだ。
合戦のもよう
矢切側には里見義弘を大将として八千騎、これに対して江戸川柴又、小岩側に北条側は、江戸城代家老遠山丹波守直景と葛西の富永三郎右衛門尉を先陣として着陣した。
この時、小金大谷口城主高城氏も北条方に加勢のため、下矢切大堀外(今の矢切神社東側)に陣を張り、遠山軍を助けた。
遠山、富永等は大将北条氏康、氏政父子の到着を待たず、矢切の渡しを押し渡り、国府台から栗山、矢切へかけての里見軍へ攻め寄せた。
遠山軍に押された里見軍は、いったん退却するかに見せかけたが、勢いにのった遠山軍が大坂の途中まで攻め登った所を、一挙に坂上から攻め落とした。北条方の勇将富永三郎右衛門尉は、朝からジュンサイ池附近から大堀へかけて馬を縦横に馳せて奮戦したが、大坂上で落馬した所を折り重なって里見方に首を渡した。その場所は、ここ文学碑わきの坂道であった。
又、遠山丹波守は、坂下坂川の手前「カイカバ曲り目の内野」という所で、里見方の里見山之介という十六才の少年にその首を打たれた。
この日の戦いは北条方の敗北で、柴又陣に引き退いたが、この夜半、戦勝の酒に酔いしれた里見軍の将兵は、北条氏の大軍にはさみ打たれ、さんざんの大敗戦となり、大将里見義弘は市川の須和田から中山をへて安房に逃れたが、その後再起することはなかった。
本土寺過去帳に「コウノ台ニテ上下諸人 遠山殿 江戸城主 癸亥正月 其外千余人」と記されている。
南無・・・・
昭和四十五年 正月 撰文 奥山儀八郎 矢切地区風致保存会」
階段を上がった広場に「野菊の墓文学碑」が建てられています。
(碑文)
「野菊の墓 文学碑
僕の家といふのは、矢切の渡しを東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云っている所。崖の上になってるので、利根川は勿論中川までもかすかに見え、武蔵一ゑんが見渡される。秩父から足柄箱根の山々、富士の高嶺も見える。東京の上野の森だと云ふのもそれらしく見える。
村はずれの坂の降口の大きな銀杏の樹の根で民子の来るのを待った。こゝから見下ろすと少しの田圃がある。色よく黄ばんだ晩稲に露をおんでシットリと打伏した光景は、気のせゐか殊に清々しく、胸のすくような眺めである。
伊藤佐千夫著 野菊の墓より
昭和三十九年十月 門人 土屋文明織」
(説明板)
「野菊について
「野菊」という花は、山野に咲く数種の菊を総称したものであり、「野菊」という名の花はありません。関東近辺で一般に「野菊」と呼ばれる花は、カントウヨメナ、ノコンギク、ユウガギクなどがあり、いずれも白か淡青紫色で田のあぜや川べりに生える多年草です。
さて、小説『野菊の墓』には、政夫が「民子さんはどう見ても野菊の風だ」民子が「政夫さんはりんどうのようだ」という記述がありますが、民子が好きだった「野菊」とは、どのような花だったのでしょうか。
矢切地区風致保存会」
<句碑>
文学碑の左横に、野菊の墓のモデルとなった民子(本名:美恵)の妹の光江の句碑があります。
(碑文)
「姉美恵に捧ぐ
野菊の如き きみなりき 絆に強く 永遠に姉妹 光江」
<伊藤左千夫歌碑>
伊藤左千夫の3つの歌碑が建てられています。
「釜たぎる 湯気の煙のおぼろげに みかげ見ゆらく 吾が恋ふれかる 左千夫」
「欠けてるし割れてるし、解読できません。」
「かつしかや市川あたり松を多み松の林の中に寺あり 左千夫」
<板碑/石造物>
昭和48(1973)年3月建造の「野菊苑歩道橋」です。
「野菊の墓文学碑」と「野菊苑」を大坂の上でつないでいます。
春は歩道橋の上は、桜のトンネルとなります。
野菊苑は展望台でもあります。
松戸市矢切地区の開発に尽力した渋谷金蔵氏の銅像があります。
<展望台>
矢切耕地、江戸川が一望できます。
<渋谷金蔵翁之像>
(碑文)
「澁谷金蔵翁銅像記
翁ハ元治元年下矢切ニ生レ資性温厚愛郷ノ志固ク明治四十一年有志ト相謀リ排水機ヲ設置シ矢切郷開発以来ノ水災ヲ除キタリ 爾来実ニ三十有余年孜々トシテ一日ノ如ク土地改良ニ盡摩セラレ昭和七年縣耕地協會ヨリ又昭和十三年帝國耕地協會ヨリ表彰セラル昭和十年有志相謀リ翁ノ銅像ヲ建設セシガ大東亜戦争ノ為応召セラル 今回翁ノ功績ヲ稱ヘ是ヲ再建シテ其功徳ヲ不朽ニ傳へントス
昭和二十九年六月 矢切土地改良區理事長齋藤喜三治書」
<水道記念碑>
昭和14(1939)年の建立です。「下矢切水道略記」が刻まれています。
<掲示/火の見櫓>
「野菊の墓文学碑」で「野菊のこみち」は終端となります。
公衆トイレ脇に「野菊のこみち」道標と、「矢切・栗山地区観光案内図」が建っています。