【旧蹟】
○ 国府台城跡
○ 羅漢の井
○ 鐘ヶ渕
○ 里見群亡の碑
○ 夜泣き石
○ 明戸古墳石棺(市川市文化財)
【文学碑】
○ 紫烟草舎
○ 文学碑
・北原白秋歌碑
・松本千代二歌碑
・伊藤白潮句碑
・宗左近没後十年記念詩碑
里見公園は、江戸川に面した台地上にある国府台城の城跡で、昭和33(1958)年に現在の公園となりました。
桜の名所で、北原白秋の旧宅「紫烟草舎」や羅漢の井、里見諸将霊墓、夜泣き石、明戸古墳石棺等があります。
「江戸名所図会 国府台總寧寺 其二古戦場」
「江戸名所図会」の「国府台總寧寺」と「其二古戦場」を合成し、
現在の里見公園部分の抜粋です。
<公園銘板など>
公園銘板「里見公園」、里見公園案内図
<房総の魅力500選>
(プレート文)
「房総の魅力500選 千葉県
「房総の魅力500選」は、昭和58年に千葉県の人口が500万人に達したのを記念し、魅力あるふるさとづくりの一環として昭和63年1月に選定されたものです。
市川の里見公園
この公園は、戦国時代に里見氏などの房総勢と小田原の北条氏が二度も戦った古戦場跡で、今でも土塁や空堀の跡が残されています。
昭和33年に現在の公園となり、桜の名所として市民に親しまれています。園内には明戸古墳石棺、羅漢の井、里見諸将群霊墓などがあり、古い歴史を物語っています。また、北原白秋の旧宅「紫烟草舎」が昭和44年に移築復元されています。」
平成15(2003)年にバラ園が整備され、バラが植栽されています。
公園パンフレットによると計112種、約700本のバラが植えられています。
富士山の頂上に太陽が沈む「ダイヤモンドフジ」を見ることができる場所です。
展望案内板はありますが、この場所の名称はありません。
国府台城は文明11(1479)年に太田道灌が築いたものと伝えられています。
天正18(1590)年、徳川家康が関東を治めると、国府台は江戸俯瞰の地であるところから廃城となりました。
(碑表)
「国府台城跡」
(碑裏)
「設置 昭和53年3月 市川市」
(説明板)
「国府台城跡
「鎌倉大草紙」によれば、文明一〇年(一四七八)に扇谷上杉氏の家宰太田道灌が「下総国国府台」に陣取り、仮の陣城をかまえたとあり、これが国府台城のはじまりであるとする説がある。道灌は武蔵にいた千葉自胤を助け、敵対する千葉孝胤と戦うためにここに陣取り、境根原(柏市)に出陣し、孝胤を破っている。
これより以前の康正二年(一四五六)、千葉自嵐は兄の実胤とともに「市川城」に立てこもり足利成氏方に抵抗していたが、簗田出羽守らにより城を落とされ、武蔵石浜(台東区)に逃れていた。この「市川城」と太田道灌の仮の陣城との関係が注目されるが、同じものなのかどうかは不明である。
「国府台は標高二〇〜二五メートルの下総台地の西のはしで、江戸川に平行して南へ張り出した大きな舌状の丘陵であり、現在の里見公園のなかに土塁状の城郭遺構が現存している。そして公園の北に向かっても城郭の遺構らしきものが確認される。
公園内の遺構は破壊が激しく、築城の時期を想定することは難しいが、太田道灌の時代よりは後の時代に属する、とする推測もある。
この地は、その後天文と永禄の二度にわたり、小田原の戦国大名北条氏と安房の里見氏らにより行なわれた合戦、いわゆる国府台合戦の舞台となっている。
天文七年(一五ニ八)の合戦は、北条氏綱と小弓公方足利義明・里見義堯らが戦ったもので、小号(千葉市)に拠を定めた義明と北条家が担ぐ本家筋の古河公方家との戦いである。これに対して永禄七年(一五六四)の戦いは、着々と東国に覇権を確立せんとしていた北条氏康と、これに抵抗する里見義堯・義弘らの戦いであった(前年の永禄六年にも合戦があったとする説もある)。
永禄の合戦の結果、北条軍は圧勝し、里見方は盟友である正木氏の一族など多くの戦死者を出し安房に敗走する。現在の国府台城跡は、この合戦のなかで激突する両軍の争奪の場となり、戦後、北条氏の手により規模が拡大強化され、初期のものから戦国期の城郭に進化した、とする説もある。
現在の公園内には、江戸時代になって作られた里見軍の慰霊のための供養塔がたてられている。
この地はその後、里見八景園という遊園地の敷地となり、その後は陸軍軍用地となり、終戦を迎えている。
平成十八年三月 市川市教育委員会」
「成田名所図会 小弓義明戦死の図」(国文学研究資料館蔵)
説明板に掲示されている「成田名所図会 小弓義明戦死の図」です。
足利・里見連合軍が陣をはったのは国府台城ですが、激戦の場となったのは相模台です。
足利義明の弟の基頼、息子の義純らが戦死し、足利義明も戦死します。
<坂を下る>
里見公園入口から江戸川に向かって坂を下り、まずは140m先の「羅漢の井」を目指します。
距離標「国府台城跡(里見公園) 羅漢の井140m 総寧寺120m」
<名所江戸百景>
公園正門入口にある「名所江戸百景 鴻の台、と弥川風景」です。
(説明板)
「名所江戸百景の内 「鴻の台、と弥川風景」
浮世絵師安藤広重が安政三年(一八五六)刊行した名所絵で、当時の鴻の台(国府台)と、と弥川「利根川(江戸川のこと)」の風景を知る貴重な資料の一つです。」
<利根川東岸一覧>
公園の坂側の壁に掲示されている「利根川東岸一覧」です。
(説明板)
「利根川東岸一覧
明治元年(一八六八)浮世絵師玉蘭斎貞秀が描いた鳥瞰図的画法による錦絵です。
江戸川は、そのころ利根川または新利根川と呼ばれていました。」
坂道を下って、江戸川に突き当る手前に「羅漢の井」はあります。
里見氏一族が国府台城に布陣した際の飲用水として使用したと伝えられます。
掲示「この湧き水は、飲料には適しません。市川市」とあります。
(説明板)
「羅漢の井 この絵は天保5年(1834)に完成した江戸名所図会に描かれたものです。絵は、浮世絵師長谷川雪旦、雪堤 父子が描いた実に詳細を極めたもので、当時の情景を知る上で、実に貴重な資料となっています。市川市域に関するものは、この羅漢の井をはじめ、15図に及んでいます。」
公園内からも、急階段を下りると「羅漢の井」に通じています。
「江戸名所図会 古戦場」
江戸名所図会より「らかん井」部分の抜粋です。
「江戸名所図会 羅漢の井」
法衣を着た僧が見物人を前に解説しているようです。
「利根川東岸一覧 抜粋」
井桝が下とその上と、2つ見えます。
永禄の合戦に里見軍が陣鐘を掛けたという「鐘懸けの松」があり、
松の枝が折れて鐘が川に沈んだため、鐘が落ちた場所は「鐘ヶ渕」と呼ばれました。
江戸名所図会によると、この鐘は、里見義弘が船橋の慈雲寺から奪って、国府台の陣鐘としたものでした。
「市川市勢要覧」(昭和13年)には、「鐘掛ノ松」等の遺跡存在スと記されているので、
昭和13年当時はまだ松が存在していたようです。
「江戸名所図会 古戦場 鐘ヶ渕抜粋」
江戸名所図会から「鐘ヶ渕」部分の抜粋です。
文政12(1829)年に建てられた「里見諸士群亡塚」(左)、「里見諸将霊墓」(中央)、年代不詳「里見弘次公廟」(右)と三つ並んだ碑です。
(説明板)
「里見広次並びに里見軍将士亡霊の碑
永禄七年(一五六四)一月四日、里見義弘は八千の軍勢をもって国府台に陣を構え、北条氏康の率いる二万の兵を迎え撃ちました。しかし、八日払暁北条軍は寝込みを襲い里見の陣地目がけて一斉に攻撃をかけたのです。鬨の声に驚いた里見軍は「あるいは鎧、太刀よ馬に鞍おけと呼びまた太刀一振り鎧一領に二人三人取付て我よ人よとせり合ひ、兜許りで出づるもあり鎧着て空手で出づるもあり」という狼狽ぶりを呈しました。
この合戦で敗北し里見軍は里見広次、正木内膳らをはじめとして戦死する者五千名と伝えております。その後里見軍戦死者の亡霊を弔う者もなくやっと文政十二年(一八二九)に至って里見諸士群亡塚(左側)里見諸将霊墓(中央)が建てられ、また年代は不詳ですが石井辰五郎という人によって里見広次公廟(右側)が建てられました。
ここに二六五年の歳月を経てようやくこの地で討死した里見軍将士の亡霊が慰められ、今日に残されたものです。」
永禄7(1564)年の合戦で戦死した里見広次の姫が、父の霊を弔うため、国府台を訪ねてきました。
姫はそばにあった石にもたれで父の名を呼びながら泣き続け、とうとう息が絶えてしまいました。
以来、この石から夜になると悲しい声が聞こえてきたという伝説を秘めた石です。
しかし、国府台合戦の記録では、里見弘次は合戦のとき15歳の初陣で、戦死したことになっています。
「夜泣き石」の台座は、明戸古墳の石棺の蓋が使用されています。
(説明板)
「「夜泣き石」伝説
伝えによると、国府台の合戦で北条軍に敗れた里見軍は多くの戦死者を出しました。このとき、里見軍の武将里見弘次も戦死しましたが、弘次の末娘の姫は、父の霊を弔うため、はるばる安房の国から国府台の戦場にたどり着きました。
未だ十二、三歳だった姫は、戦場跡の凄惨な情景を目にして、恐怖と悲しみに打ちひしがれ、傍らにあったこの石にもたれて泣き続け、ついに息絶えてしまいました。
ところが、それから毎夜のこと、この石から悲しい泣き声が聞こえるようになりました。そこで里人たちはこの石を「夜泣き石」と呼ぶようになりましたが、その後、一人の武士が通りかかり、この哀れな姫の供養をしてからは、泣き声が聞こえなくなったといいます。
しかし、国府台合戦の記録は、里見弘次は永禄七年(一五六四)の合戦のとき十五歳の初陣で、戦死したことになっています。この話は里見公園内にある弘次の慰霊碑が、もと明戸古墳の石棺近くに夜泣き石と共にあったところから、弘次にまつわる伝説として語り伝えられたものと思われます。
平成四年三月 市川市教育委員会」
「江戸名所図会 古戦場 夜なき石抜粋」
江戸名所図会から「夜なき石」部分の抜粋です。
碑が三基見えますが、夜なき石はどこに描かれているのかわかりません。
市川市の文化財に指定されている2つの石棺があります。
文明11(1479)年に太田道灌がここに城を築いたときに盛土が取り払われて露出したものと伝えられています。
古墳時代後期(6世紀後半〜7世紀初頭)の豪族の墓と推定されています。
(標柱)
正面「市指定重要有形文化財 明戸古墳石棺」
左 「設置 昭和五十三年三月 市川市」
(説明板)
「明戸古墳石棺
明戸古墳は、全長四十mの前方後円墳です。周辺からは埴輪が採集され、埴輪から六世紀後葉に造られたことがわかります。二基の石棺は板石を組み合わせた箱式石棺で、後円部墳頂近くに造られ、今でもその位置を保っています。かつての写真から石棺の蓋と思われる板石は、里見公園にある「夜泣き石」の台座になっています。石材は黒雲母片麻岩で、筑波石と呼ばれるものです。石材は筑波山麓から切り出され、霞ケ浦・手賀沼・江戸川の水運を利用して運ばれたものと思われます。
この二基の石棺は、天保七(一八三六)年に発行された『江戸名所図会』に「石櫃二座。同所にあり。寺僧伝え云ふ、古墳二双の中、北によるものを、里見越前守忠弘の息男、同姓長九郎弘次といへる人の墓なりといふ。一ツはその主詳ならず。或は云ふ、里見義弘の舎弟正木内膳の石棺なりと。中古土崩れたりとて、今は石棺の形地上にあらはる。その頃櫃の中より甲冑太刀の類および金銀の鈴・陣太鼓、その余土偶人等を得たりとて、今その一二を存して総寧寺に収蔵せり。按ずるに、上世の人の墓なるべし。里見長九郎及び正木内膳の墓とするは何れも誤りなるべし。」と書かれ、図も描かれています。『江戸名所図会』によって十九世紀にすでに石棺があらわれていたことがわかるばかりか、失われた出土資料を知ることができます。
平成十六年三月 市川市教育委員会」
「江戸名所図会 古戦場 石ひつ抜粋」
江戸時代も柵に囲われて保存されていたようです。
「石ひつ」と記された部分には4つ見えますが、本文には二座とあるので、蓋も描かれているのでしょうか?
「里見八景園」は、大正13(1924)年に開園し、昭和8(1933)年に閉園、私設「里見公園」となります。
「市川市要覧」(昭和10年)の里見公園の項には「里見八景園とも称し」とあり、
閉園後も引き続き里見八景園と呼ばれたようです。
(※開園年は「全國公園運動場調」(厚生省体力局編 昭13年至15年)によります。)
第二次世界大戦時に、多くの防空壕が掘られ荒廃します。
「東京近郊史蹟案内」(昭和2年)
里見八景園の紹介では、
「その工事に當つて古墳を崩し、城塁を切り開いて折角の遺跡を形なしに打壊し、俗悪な遊楽機関を設けたことは、近時頻々として起る史蹟破壊の一例として憤欺に堪へない。」
とあります。
太鼓橋は「里見八景園」の遺物です。橋の上は煉瓦が敷かれています。
池は「里見八景園」のプール跡です。
里見八景園内にプールを造る際に掘った土をトロッコで引き揚げてできたものだといわれています。
(標柱)
「市川市最高標高地点(標高三○、一M)」
江戸名所図会で一番高い所は、「石ひつ」の西側に描かれている「天守台」と「浅間社」のあった小山でした。
「里見八景園」造成の際にも残されたようですが、現在は小山はありません。
(参考)「名妓之碑」
浮島弁財天に、「里見八景園」の創設者のご子息が建てた「名妓之碑」があります(こちらで記載)
北原白秋は大正5年の夏から約1年間、当時小岩にあった「紫烟草舎」に住みました。
江戸川の改修工事のため解体されていましたが、里見公園にて復元されました。
なお、北原白秋は小岩に移り住む前は、真間の亀井院に住んでいました(こちらで記載)。
(説明板)
「紫烟草舎の由来
「からたちの花」「砂山」などの詩で親しまれている詩人・北原白秋(明治十八年〜昭和十七年)は大正五年の夏から約一年間、当時小岩にあったこの離れにおいて、すぐれた作品の創作を続けた。白秋自身、紫烟草舎と名づけたこの建物は、その後、江戸川の改修工事のためにとりこわされ、解体されたままになっていた。
たまたま、本建物の所有者、本市在住の、湯浅伝え?氏の厚意ある提供を受けた市川市は白秋をしのぶようすとして、家の間どり、木材などすべて当時のままに、ここ里見の地に復元した。復原の地をここに求めたのは小岩に移り住む前白秋が真間の亀井院に住んでいたこと、小岩に移ってからも対岸の江戸川堤から眺めるこの里見の風景や万葉の昔よりゆかりの深い葛飾の野を、こよなく愛していたことによる。
市川市 市川市観光協会」
紫烟草舎の横にある「北原白秋歌碑」です。
(説明板)
「華やかに さびしき秋や 千町田の
ほなみがすゑを 群雀立つ 白秋
広大無辺な田園には、黄金色の穂がたわわに実り
さわさわと風にそよいで一斉に波うっている。その穂波にそって
はるか彼方に何千羽とも数知れない雀の群れがパーッと飛び立つ。
この豪華絢爛たる秋景のうちには底無き閑寂さがある。
むら雀の喧騒のうちにも限りない静けさがある。
逆に幽遠な根源が眼前にはたらき形のない寂静が
華麗な穂波や千羽雀となって動いている。
大正五年晩秋、紫烟草舎畔の「夕照」のもとに現成した
妙景である。体露金風万物とは一体である。父、白秋は
この観照をさらに深め、短歌での最も的確な表現を期し
赤貧に耐え、以降数年間の精進ののち、詩文「雀の生活」
その他での思索と観察を経て、ようやくその制作を
大正十年八月刊行の歌集「雀の卵」で実現した。
その「葛飾閑吟集」中の一首で手蹟は昭和十二年十二月月刊
の限定百部出版「雀百首」巻頭の父の自筆である。
一九七〇年 佛誕の日 北原隆太郎」
「川明かり およぶ木群の 寂けさを 安らぎとして ここぞふるさと 千代二」
「来歴のやうに一本冬の川 白潮」
平成20(2008)年6月19日の建立です。
(碑文)
「宗左近没後十年記念詩碑
蕊
「市川讃歌 透明の蕊の蕊」より
曙 いま 世界が垂直
市川 蕊の蕊の透明
はばたく 虹の風たち
宗左近 一九一九〜二○○六
詩人 市川市名誉市民
二○一六年六月五日 建立
寄贈 宗左近詩碑建立の会
制作 中村ミナト」
里見公園正門入口にある案内板「軍隊の街」です。
(案内板)
「街かどミュージアム拠点案内板 文化の街かど情報
“軍隊の街”
明治期以降、国府台地域は軍隊の街として知られていました。明治18年、陸軍の下士官の養成機関である陸軍教導団が東京より移転してきて、武術など様々な訓練が行われていました。教導団の生徒は一時1600名にのぼり、国府台は教導団の名とともに日本全国に知れ渡っていました。
陸軍教導団が明治32年に廃止された後、国府台には野砲兵連隊が設置されるようになり、野戦重砲兵連隊・騎砲兵連隊なども加わり様々に編成を変えながら第二次世界大戦が終わるまで軍隊が駐屯していました。現在、その跡地には、スポーツセンター、大学・高等学校・中学校等が設置されています。また、真間山弘法寺には「国府台砲兵之碑」が建っています。」
<周辺案内図>